ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

こんな支援者はお断りだ。三カ条

こんばんは。Buenas noches!!

さて最初にお知らせ。

弊ブログにコメントを寄せてくださる方が、最近別のブログで「ひきこもり新聞」や、その主宰者などを「Disる」コメントを寄稿していることが分かった。

あるものごとや団体を批判することは健全であると思う。

ただ、こんなことを言うなんてとても残念だなあ、と思うだけである。

そもそも「ひきこもり新聞」が、「主宰者の私利私欲を満たすために作られたもの」であったなら、「ぼそっと池井多」氏は同新聞に「塞翁医師」「阿坐部村」と同じ「臭い」を感じて編集員を辞めていると思う。

さて、私はさまざまな支援施設を利用してきたが、運がいいことにけっこう「話の分かる」人ですぐに打ち解け理解することができた。

特に

は本当によかった。

幸い、自分の立場や意見に対し、理解をしてくださったうえで、アドバイスをくださる方々ばかりだったのでよかったが、私から見て「こんな支援者はお断りだ」というべき人間の態度を以下に3つ挙げていこうと思う。
一部「毒親の条件」とも重なるがご容赦を。

①「お前の悩みは本当の悩みなんかじゃない」などとクライアントのことを矮小化

「お前の悩みは悩みとは言わないんだよ」「そんなんで苦しいというのか。そんなものは苦しいのうちに入らへんわ」とか、自分がいま苦しんでいる、という状態を把握することすらせず支援者の独断を押し付けるタイプ。

「そんなの苦しいのうちに入らない」なんて「支援者の主観」でしかないのにね。
そしてそこに「他には難病などで苦しんでも生きようと頑張っている人もいっぱいいるのにお前というものは…」というパターンもある。
いわゆる「感動ポルノ手法」である。

他人なんて関係ない。苦しんでいるのは自分自身。自分自身が苦しいのだ。
そう言うところに目線を下ろそうとしない支援者諸氏がよく上記の行動パターンをとる。

②クライアント個人の趣味・嗜好を否定する

これもよくあることだと思う。
「ゲームしている暇があるならさっさと着替えて運動せんかい!」「あんた、『撮り鉄』が趣味か。駅利用者に迷惑かけているんだろ?」とか、先入観をもってクライアントを叱責する。
クライアントはもうこの時点で「こいつはお断りだ」となるだろう。

③人前(クライアントの前)で煙草をくゆらせる

ああ、これは最悪の支援者がやることだよ…

もうこの時点で支援者が、

「エラソーな人」

という印象が植え付けられる。

むろん、煙草をくゆらせること自体はかまわない。
ただ、人前でも堂々とやると「煙草の煙(副流煙)やヤニ臭さが嫌いな人」はどう思うだろうね。
いわゆる「スモークハラスメント」だよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1、2、3のトリプルチェーンというのもあって、「煙草をくゆらせながら『お前の悩みは大したものではない』と切り捨て、『ゲーム?そんなものやってるから生活が堕落するんだ』と叱責する」なんていうのは本当に最低最悪の支援者だ。
支援者辞めて別の道へ行くべきだと思います。

以上。今後とも宜しく。Nos vemos!!

「社会福祉は『本当に必要な人』にのみ与えるべき」←これ、なんか「現象」として命名できませんかねえ?

おはようございます。Buenos dias!!

久しぶりのBuenos dias!!だなあ…

今回は、まえから綴りたいと思っていた「社会福祉は『本当に必要な人』にのみ与えるべき」という話について。

昨年、人工透析が必要な人たちに対し「全額自己負担にすべき、払えないなら死ね」と公式ブログに綴ったフリーアナウンサーがいた。

そのフリーアナウンサー氏は、その後の弁明で「先天的・遺伝的理由で人工透析を受けている人は別」と言った。

つまり、社会保障や医療など『社会福祉』は、『本当に必要な人』にのみ与えるべき」、という論理ですね。

この手の「論説」は、いろんな出来事で、あちこちで聞かれる。
以前よく訪問した二条淳也師匠のブログでも「生活保護は『本当に必要な人』に与えられるべき」ということが常連訪問者たちとのやり取りにあった。

なんかこれに、「現象」として「命名」がしたくなってきた…

ふとそう思ったら、「トリアージ」という言葉が思い浮かんだ。

トリアージ」とは、災害医療において使われる用語で、「まず『どの患者を優先的に治療すべきか』を判断するため患者たちを『格付け』すること」である。
災害など緊急状況下では、施設や交通機関が麻痺した状態であり、すべての患者を満遍なく治療することができない。
そこで、「優先順位」を振り分けるためになされるのが「トリアージ」、というわけである。

さきほどの「人工透析を受ける患者」なんかまさにそれだわな。
生活習慣病*1で病気になった人なんて治療する必要はない。先天的な原因で病気になった人を治療すべき」ということなんだからなあ。

災害医療において用いられる「トリアージ」の論理を、社会全体に当てはめようとする…
そうだ…

「社会的トリアージ

よし、この言葉を命名しよう。
ダーウィン進化論の論理を社会に当てはめる「社会ダーウィニズム」という言葉もあるんだし。

ちなみに、私が尊敬する藤田孝典氏の著書「貧困クライシス(毎日新聞出版)」にも「社会的トリアージ」を批判する部分がある。

「本当に困っている人だけ助けよう」とは、財源が乏しいとき配分をめぐって必ず見られる言説である。一見、もっともらしく聞こえるが、誰が「本当」を決めるのか、結局は、そう言っている人が自分で決めたいのだ。

 ほっとプラス*2に寄せられる年間約500件の相談のうち、ブラック企業で働く若者はうつなどのメンタル疾患に悩み、中高年の多くは脳梗塞心筋梗塞といった、循環器系疾患や生活習慣病を抱える。持病を抱えていない人がほとんどおらず、「自業自得以外で病気になった人」とそうでない人との線引きなど、独善的にしかできない。(後略、P67)

 それではまた。昨日は台風の暴風域が地元に直撃しましたわ…

*1:ちなみにこの言葉を命名した方は今年亡くなられた日野原重明氏である。

*2:引用者注・藤田氏が主宰する社会支援NPO団体。

「毒親の条件」第8回「とりあえず第一部完、毒親問題について参考になったサイトなど」

こんばんは。

シリーズ連載「毒親の条件」、今回でとりあえず第一部完、という形をとります。
また機会があればこのシリーズは「第二部」の形で執筆したい。

第8回「毒親について参考になったサイトなど」

第一部最終回は「毒親について参考になったサイトなど」を紹介する。

アフガン・イラク・北朝鮮と日本

その名もずばり「プレカリアート」という方のブログ。
このブログの「当サイトと私の生い立ち」カテゴリーに綴られている「父親」像が、まさに私の父親そっくりでびっくりした。

また、ご本人が大阪在住で非正規雇用労働者というのも、私と共通している。

壊れた器は捨てなさい | 毒親・ダメな家族から立ち直るトレーニング

先述のブログで紹介されていたサイト。

はっきり言って本シリーズ連載よりも、こちらの方が「毒親」問題について的確な指摘とアドバイスがなされている。

まあ、本シリーズ連載は半ば父親のことを綴るものだったんだけど。

最後に

さて、本シリーズ連載の最後に私からのアドバイスを。

とにかく、「親以外の味方を作ろう」、これに尽きる。

私の場合は主治医の精神科医や、精神保健福祉士の「大佐」、地元市役所の福祉担当、障害者職業センターのカウンセラーなど、たくさんの「親以外の味方」を作った。

これがもし、親以外の味方=相談相手がいなかったら、私は苦しみ続けただろう。

そしてこれは、親の側にも当てはまる。
私の弟夫妻は現在息子を育てているが、私は夫妻に「市役所の支援窓口とか、何かあったときのためにアドバイスがもらえる窓口と親密になりなさい」とアドバイスした。

それにしても、わが国日本の「親至上主義」「親信仰」には辟易する。
「親だけでは限界がある、もっと『社会が担う子育て』というべきシステムも構築すべきではないか」と言ったらこの手の「信者」たちからブーイングが飛ぶんだものなあ…

毒親問題」の根本は「親信仰」にあると思うのだが…

そもそも親子って、「他人同士に毛が生えた程度の物」でしかないと思う。

それではまた。

「毒親の条件」第7回「私の父親」

こんばんは。Buenas noches!!

朝夕めっきり涼しくなった。
これでブログ更新頻度も高まればいいのだが…
がんばります。

最近、朝のお弁当のおかずに「卵焼き」を自分で作ることが多い。
6月に母親が入院したことをきっかけに、自分で弁当を作ることが多くなったのだ。

で、その「卵焼き」で思い出すのが、小学校時代の「道徳」授業においてまさに「卵焼き」をテーマにしたエピソードを習った覚えがある。

~~~~~~~~~~~~~~~~

ある少女がお弁当のおかずに「卵焼き」を作ってほしいと不満を漏らしました。

父親は少女の態度に激高し、殴打しました。

その晩、父親は当時高価だった卵を買い、翌朝卵焼きを作りました。

少女は父親の本当のやさしさに心を打たれ、進んで家のお手伝いをするようになりました。

めでたしめでたし。

~~~~~~~~~~~~~~~~

おえええええっ~~~~~~~~~~~~

ゲロ以下の臭いがぷんぷんするぜぇ~~~~

殴打しておきながら裏で少女の要望に応えるって、ツンデレかよ?

当時は「ナルホド、親ハ大切ニシナケレバナラナイナ」と素直に思っていたが、「毒親」問題が深刻な現在では本当に「ゲロ以下の臭い」が充満する品物だわ。
それにしても、「道徳」科目は必修になるんだよなあ…当時は半ば「自習のお時間」的な扱いだったけど。

さて、本日の「毒親の条件」は、私の父親の生い立ちを綴る。

第7回「私の父親」

私の父親は1947年(昭和22年)、福井県福井市で生まれた。
れっきとした「団塊世代」である。
ちなみに父親の父親(つまり私の祖父)は当時非合法だったプロレタリア系政党の党員だったという。

父親は中学校卒業後、すぐに大阪へ就職した。
いわゆる「金の卵」の「集団就職」だった。

父親は職を転々とした。「終身雇用」なんて嘘っぱちだ

父親はとにかく底辺とされる職種を転々とした。
ほとんど「日雇い労働」に近いものであった。

縫製工場の下働き、鉄工所の危険な部署での作業、そして建設ラッシュ真っ只中での建設現場…
あくまで私が父親から聞いた分のケースである。
本当はもっと多数の職場で働いていたという。

ここらへんで、もう「終身雇用」なんて嘘っぱち、少なくとも「該当しない人も多数いる」ということは言えるかと思う。

安定した職に就くものの、定年まで平社員の月給だった。「年功序列」も嘘っぱち

その後、父親は電気機器の部品メーカーに正社員として入社する。
待望の「安定した職場」だ。

それから数年後、父親は母親と結婚、公営住宅を借りて私と弟をもうけた。

ただ、父親は定年までほとんど給与が上がることはなく、はっきりいって「平社員」に毛が生える程度でしかなかった。

ここでも、「年功序列」なんて「そんなものはなかったぜ」と言えると思う。

ちなみに、この会社には定年後も「嘱託」として勤務していたが、倒産した。
「定年退職(円満な形での)」することは結局できなかった。

他人にも、そして支援制度にも頼ることは出来なかった

電気機器部品メーカーに入社するまで、職を転々としたことは先述の通り。
むろん、現在で言う「非正規雇用」なので、生活は安定しなかった。
実際、父親の話では「屋根裏部屋」で寝食していたという。

当時、労働基準法労働安全衛生法などの労働法制や、生活困窮者への支援制度も整備されていたはずだったが、父親はそれを「権利」として利用しようとしなかった。

それどころか、「そんな支援制度を利用することは恥だ」という意識を持っていた。

なぜなら、父親の父親は「生活保護の受給者」だったから。
それで学校では級友から「いじめられる」ことが多かったらしい。

私に対して「『権利』というものは『義務』を果たした者への恩給だ」「人や支援制度に頼ってどうする」とか言っていたのはこういう生い立ちからくるものかもしれない。

最後に

そんな父親も今年70歳になった。
そして30歳のときに生まれた私は40歳になった。

もう、いつ「あの時」がきてもおかしくない。

いろいろ「毒親」と言ってきたが、せめて最後だけは父親に報いたいと思っている。

次回は最終回になります。

「毒親の条件」第6回「『必要悪』を容認する」

こんにちは。

前回、「中学生を殴打した著名ジャズ演奏家」の話をしたんだけど、このことを考えていたら私が小学生の時に近所の駄菓子屋*1で見知らぬ中年から受けた暴行を思い出してしまい、情緒不安定になってしまった。

お店の人に「今売り切れなのよ…」といわれて私が不満を口にしたところ、店にいた中年から殴打され、外に引っ張り出されて壁に叩きつけられ、なおも殴打を繰り返したのだ。

むろん、当時の風潮は「テンゴ*2した人間は殴打されても文句は言えない」というものだったから、親は中年の仕打ちを容認していた。

第6回「『必要悪』を容認する」

中学生や私自身が受けた殴打もそうだが、普段「暴力は悪いことですよ」と言っておきながら、立場が「上」とされる人間がやる「悪いこと」は、

「必要悪」

として容認される風潮は本当になんとかならないものか。

毒親」もまた、「必要悪」の産物

毒親」の特徴として問題になるのは「児童虐待」だと思う。

その児童虐待もまた、「しつけ」という名のもとに「必要悪」としておこなわれている。

その実態はただの暴行、そして「傷害致死」でしかないのに。

父親もさかんに「必要悪」を口にしていた

父親もまた、さかんに「必要悪」を口にしていた。

などなど…

「いちいちこれらを『法律違反』『犯罪』とかいって取り締まると逆に窮屈になるんや。だから多少『おめこぼし』がないとあかんのや」

というのが父親の話。

こういう「多少の悪は容認される」という姿勢が、先述の「ジャズ演奏家の中学生殴打」も容認しているんだよなあ…

前回も綴ったが、これは「毒親」という、「親」だけの問題ではなく、「毒オトナ」と「オトナ社会全体」の問題として考えるべきだと思う。

次回に続きます。
次回は父親の生い立ち、そして次々回は本シリーズ連載のひとまずのまとめの予定です。

*1:民家の軒先をお店にしていたところで、お菓子やパンはもちろん、洗剤やその他日用雑貨も取り扱っていた。のちの「コンビニ」である。

*2:関西弁で「いたずら」「悪いこと」の意。

「毒親の条件」第5回「『常識』『みんな』を持ち出して子どもを叱責する」

こんばんは。Buenas noches!!

このシリーズでは「毒親」という言葉を使っているけど、最近あるジャズ演奏家がドラマーの卵というべき中学生に対しすこし「逸脱した行為をした」からと言って顔を殴打することをやったらしい。

lite-ra.com

で、これに対して「世間のオトナ」たちが演奏家氏を擁護しているらしい。
むろん、私の父親も擁護していた。

こうして考えると、「毒親」と、「親」だけを問題にするのは不十分かもしれない。

むしろ、「毒オトナ」全体を問題にすべきかもしれない。

私も「HIKIKOMORI」だったころは毒オトナたちの「毒素」を沢山浴びたからなあ…
主な毒素は「相田みつを責め」「松岡修造責め」だったわ。
そしてその毒素の源は団塊世代

第5回「『常識』『みんな』を持ち出して子どもを叱責する」

今回の「毒親の条件」は「常識」だとか「みんな」を持ち出して子どもを叱責することを綴る。

「常識からみて恥ずかしい」「みんなが迷惑するだろう」と叱責されたこと、ありますよね?

私は駅で電車を待つなど、「一ヶ所でずっと待つ」ということができない。
また、よく「ひとりごと」をしゃべる。

これらの行為をしたときに父親は「こら、じっとできないのか」「ひとりごとしゃべってたらあかんぞ」とことあるごとに言った。

ここら辺はまあわからなくもない。確かに意味もなく動き回り、また誰に対してでもなく一人でしゃべっていたら周りから見て「変」だと思うのはその通りだし。

ただ、ここで父親が、

「そんなの世の常識から見たら恥ずかしい限りだぞ」
「みんなが迷惑をこうむっている、という目で見ているぞ」

と、「常識」「みんな」を持ち出すのが意味不明だった。

世の中にはいろんな人がいる、ということが父親にはわからないらしい。
別に意味もなく動き回っていようが、ひとりごとをしゃべっていようが気にしない、という人もいると思う。

「親である俺が恥ずかしくなるから」

というほうがいっそすがすがしいと思うのだが…

しまいには会ったこともない「有名人」を持ち出してくる…

そして、「常識」「みんな」を引き合いに出して子どもを叱責する行為だが、これがエスカレートするとこういいだすのよね…

「(子どもが好きな芸能人やアニメキャラの名前)も恥ずかしいと言っているよ!!」

「ア、イヤ、チョットオ父サン、アナタ芸能人ヤアニメキャラカラ直接聞イタノ?」
と突っ込みたくなるのだが…

なんか、叱責するにしても「狡猾さ」を感じてしまうのよね、「常識」「みんな」「有名人」を持ち出すのが。

次回に続きます。

「毒親の条件」第4回「勝手にプレゼントを贈り、子どもに気に入られないと逆切れ」

こんばんは。Buenas noches!!

どうも、連日の暑さでダウンし、更新が滞っておりました…
この時期はなかなか更新まで頭が回らない…
姉妹ブログは昨日更新しました。

9月に入り、朝夕が過ごしやすくなった様子なのでもう少し更新頻度を高めたいところ。

第4回「勝手にプレゼントを贈り、子どもに気に入られないと逆切れ」

さて、本シリーズ連載「毒親の条件」の第1回で、私は「『毒親』と言われる人たちは、単に『子供に厳しく接するだけの親』ではない」ということを綴った。

 

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

 

このときは「子ども自身が『厳しくされることを納得しているか、あるいは納得できない厳しさなのか』」がポイントだと綴った。

今回の「毒親の条件」は逆に「子どもにやさしく接するとき」の話である。
厳しく接するときはもちろん、子どもにやさしくなる時でさえ「毒親」は害毒になる。

子ども自身の希望も聞かず、勝手にプレゼントを贈ったり「おもてなし」をやろうとする

誕生日やクリスマスなど、プレゼントに子ども自身の要望を聞かず、親が選んだものを勝手に贈られた(送りつけられた)経験はないだろうか。
あるいは子ども自身がなにも要望していないにもかかわらず、「よっし今日はおいしいごちそうをふるまってやるぞ」と普段はやっていないことを親がやろうとしてきたことはなかっただろうか。

「別にそこまでやってほしくない」と子どもは思っているかもしれない、そういうところまで想像力が回らないのである、「毒親」は。

子どもに気に入られないととたんに逆切れ

そして、親が贈ったプレゼント、あるいは親がよりをかけてふるまった「おもてなし」が子どもに気に入られない、あるいは拒絶されると、

「おいお前、俺がこれを買うのに(「おもてなし」の準備をするのに)どれだけの苦労を掛けたか考えてみろ!!」

と「逆切れ」を起こすんだよなあ…

たとえば「ガンプラ」が好きだからといって勝手に「太陽系戦隊ガルダン」のプラモなんて買い与えられてもうれしくないだろう。
私自身、「アニソン」が好きだからと言って親に「パチソン」のカセットテープを買い与えられたことがある…

sgtyamabuunyan.hatenablog.com

しかし、わが国の「道徳」を謳う授業や書物などは「親の大切さを考えましょう」とかいって、子ども自身が望んていないものやことが与えられたとしても批判・抗議・反論することを許さないんだよなあ…

こんなことをするのは、親が子どもに「恩を売りたい」から

こうしてみると、「子どもの要望を聞くこともなく『子供が喜びそうなこと』をやろうとする」ことが決して「子ども自身のことを思ってのこと」ではないことがわかると思う。

ではなぜ、こんなことをするのであろうか。

それは、「子どもに恩を売りたい」から。
子どもからの反発を封じ込めたいからだ。

たとえ、子どもにとって不本意なことであっても、「親からの『おもてなし』は甘受すべし」という圧力からしぶしぶ受け入れるかもしれない。

しかし、子どもからの「ヘイト(敵愾心)」はどんどん蓄積されるだろう。

子ども自身のことを考えない愛情、それは「子どもに意味もなく厳しく当たる」ことに引けを取らない「毒親の条件」といえる。

次回に続きます。