おはようございます。Buenos Dias!!
すみません、あれから1週間近く更新が途絶えてしまった…
綴りたいことはわかっているんだけど、いざ文章にするとしんどい。
何度このことを綴っているか…
今回は、前回綴ったNHKスペシャル「見えない貧困」について綴る。
NHKスペシャル | 見えない“貧困”~未来を奪われる子どもたち~
相変わらず、この番組に対し「なんでこれが貧困なの?」という言いがかりが付いているようだが、その部分についても綴ろうと思う。
- 「剥奪指標」で「相対的貧困」を可視化
- 人生経験の剥奪→自分を嫌いになっていく→そしてHIKIKOMORIへ
- 相変わらずネット界隈では「当事者叩き」が横行
- もはや「自助努力」ではどうにもならないことを認識すべき
- あと印象に残ったこと
- 最後に
「剥奪指標」で「相対的貧困」を可視化
番組では、まず「相対的貧困」についての説明があり、国民の各世帯可処分所得の中央値*1に当たる世帯可処分所得の半分以下、と定義づけている。
ただ、これもあくまで線引きのための概念であり、もっと「相対的貧困」について具体的な状況を見出そうと各地方自治体がそれぞれ実態調査を実施していることが紹介される。
そのキーワードが、「剥奪指標」である。
たとえば「テレビやゲーム機、パソコンがない」「本が買えない」「新しい服や靴などを購入できない」などの物的な側面から、「家族と一緒にいる時間がない」「家族旅行にも行けない」などの人間的つながりの側面、「学習塾に通わせる余裕がない」「学校行事にも参加できない」などの教育・その他人生経験の側面に、番組ではカテゴリー分けされていた。
これらの具体的な例として、「非正規雇用労働者で、子供たちに満足に服などの生活物資を買ってあげることもできない家庭」「親がほとんど家にいないため、子供たちだけで家事もこなす家庭」「進学するのにお金がいるからほぼ毎日かけもちバイトをしている高校生」などが登場する。
いずれも、「剥奪指標」が蓄積していることが、「相対的貧困」として表れているケースといえる。
これを見ていて、私は「物的側面とか人間的つながりの側面とかカテゴリー分けはされているが、要はこれ、『人生経験がことごとく剥奪されている』と一言で言えるんじゃないかな」と思った。
人生経験の剥奪→自分を嫌いになっていく→そしてHIKIKOMORIへ
番組では、こうした「剥奪」が子供たちの「心」にどういう影響をもたらしているかについても報じられている。
東京都大田区の調査をもとに、ある「支援が必要と思われる」子どものケースとして、「頑張れば報われるなんて嘘だ」「自分には(生きる)価値があるとは思わない」など、「自己肯定感の喪失」がうかがえる事態が紹介されていた。
ああ、これはアドベンチャーゲーム風に言えば「HIKIKOMORIまっしぐらルート」ですわね…
HIKIKOMORI当事者たちは自己肯定感が喪失しているケースが圧倒的に多い。
弊ブログで以前につづったHIKIKOMORI当事者「諸星」「二条」両氏もそうだった。
親に甘えることすら許されず、「我慢をすること」を自然に身につけ、それを経て「頑張れば報われるなんて『お花畑』だ」などと「世間一般が『いいこと』とされていることへの反逆」の姿勢を見せるようになり、むろんそんな姿勢では世間一般になじむことなど不可能なので「世界に誇るわが国のHIKIKOMORI」になっていったわけだ。*2
相変わらずネット界隈では「当事者叩き」が横行
さて、今回の番組のことであるが、案の定というか相変わらずというか、ネット界隈では「当事者叩き」が横行している。
「貧困だと言っているのになんでスマホなんか持っているんだ」「節約という言葉を知らないのか」などなど…
そう言えば昨秋あたりだったかなあ、あるフリーアナウンサーが「人工透析を受けなければならない当事者は自業自得だから治療費を全額自己負担に、払えなければそのまま死ねばいい」と公式ブログで綴られていたことがありましたなあ。
これは私の持論だが、「節約」とか「節制」とかいうのは、「生活に余裕のある(つまり「剥奪」されていない)人でないとできない」と思う。
たとえば先ほどのスマホ。特に中高生の段階ではLINEなどのコミュニケーションアプリが不可欠になっている。「剥奪」されていない状態なら「スマホを持たない選択肢」を考えることも可能*3だが、「剥奪」されている状態の家庭では、スマホはもはやコミュニケーション面の命綱=ライフラインとなっているのが実情だ。
また、番組とは関係ないが、ホームレスがよくたばこを燻らせていることも非難される。これも当事者にとっては「これくらいしか楽しみが無い」と考えられよう。
私の父親もとにかく「ドケチ」なくせにたばこを止めようとしない。
父親にとってはたばことテレビくらいしか楽しみが無いからだ。
もはや「自助努力」ではどうにもならないことを認識すべき
番組の中で、ゲスト解説として出演していた湯澤直美氏がこうおっしゃっていた。
「自助努力の限界」
その通りだ。本当に、わが国の人たちはどんなに苦しくても「自分で何とかしなくちゃ…」と考えすぎる。
「自分が福祉・支援制度を受けたら、本当に受けなければいけない人にそれが行き届かなくなる」などというセリフも使われますね。「おいおい、今生活が苦しいあんたこそが福祉・支援制度を受ける資格があるんじゃないのかね」と言ってやりたくなる。
まあ、これはわが国の「権利」観によるものも大きいんでしょうね。
「権利というものは義務を果たしたものへの報酬だ」とかね。
この辺についてはまた日を改めて綴る。
あと印象に残ったこと
ある高校生が「奨学金*4」のパンフレットの表紙写真*5を見て「何笑ってんねん」とぼやいたところ。
今、わが国の国会で議論していますね。「教育無償化」や「完全給費制奨学金」の話。
しかしこれもあやふやなままで終わりそうな気がする…
本当に今の政権与党に政権を返り咲かせて良かったのかなあと思う。
最後に
久々に、良質なドキュメンタリー番組だった。
最近は本当にNHKスペシャルもこういう放送が少なくなっていたから…
わたしとしては、やはり「社会的弱者は公認であろうが非公認であろうが救済・支援されるべき」だと思う。
そのためならば、消費税10%以上もやむなしだと思う。*6
急場しのぎの提案で申し訳ないが、以前から綴っているように「公認されない社会的弱者」には「障害年金受給」も勧めたい。
番組内に「父親が腎臓の病気で会社を休みがち」というのがあった。
もしかするとそれは「障害年金の対象」になるかもしれない。
現在、そのことをつづった本「障害年金というチャンス」を読んでいる所だ。
それではまた。
ああ、この文章綴るのに1日かかった…