ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

「毒親の条件」第6回「『必要悪』を容認する」

こんにちは。

前回、「中学生を殴打した著名ジャズ演奏家」の話をしたんだけど、このことを考えていたら私が小学生の時に近所の駄菓子屋*1で見知らぬ中年から受けた暴行を思い出してしまい、情緒不安定になってしまった。

お店の人に「今売り切れなのよ…」といわれて私が不満を口にしたところ、店にいた中年から殴打され、外に引っ張り出されて壁に叩きつけられ、なおも殴打を繰り返したのだ。

むろん、当時の風潮は「テンゴ*2した人間は殴打されても文句は言えない」というものだったから、親は中年の仕打ちを容認していた。

第6回「『必要悪』を容認する」

中学生や私自身が受けた殴打もそうだが、普段「暴力は悪いことですよ」と言っておきながら、立場が「上」とされる人間がやる「悪いこと」は、

「必要悪」

として容認される風潮は本当になんとかならないものか。

毒親」もまた、「必要悪」の産物

毒親」の特徴として問題になるのは「児童虐待」だと思う。

その児童虐待もまた、「しつけ」という名のもとに「必要悪」としておこなわれている。

その実態はただの暴行、そして「傷害致死」でしかないのに。

父親もさかんに「必要悪」を口にしていた

父親もまた、さかんに「必要悪」を口にしていた。

などなど…

「いちいちこれらを『法律違反』『犯罪』とかいって取り締まると逆に窮屈になるんや。だから多少『おめこぼし』がないとあかんのや」

というのが父親の話。

こういう「多少の悪は容認される」という姿勢が、先述の「ジャズ演奏家の中学生殴打」も容認しているんだよなあ…

前回も綴ったが、これは「毒親」という、「親」だけの問題ではなく、「毒オトナ」と「オトナ社会全体」の問題として考えるべきだと思う。

次回に続きます。
次回は父親の生い立ち、そして次々回は本シリーズ連載のひとまずのまとめの予定です。

*1:民家の軒先をお店にしていたところで、お菓子やパンはもちろん、洗剤やその他日用雑貨も取り扱っていた。のちの「コンビニ」である。

*2:関西弁で「いたずら」「悪いこと」の意。