ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナ社会の解きかた(10)「毒になる親」を読み終えた今、「もう空気なんて読まない」を改めてレビューする。

こんにちは。¡Hola amigos!

今回もシリーズ連載、毒オトナ社会の解きかたをお送りする。

以前にレビューを綴った石川優実氏の著書「もう空気なんて読まない」を、スーザン・フォワード氏の著書「毒になる親」と絡めて改めてレビューする。

「毒になる親」を絡めて「もう空気なんて読まない」をレビューする

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石川優実氏の著書「もう空気なんて読まない」とスーザン・フォワード氏の著書「毒になる親」のツーショット。

先日、「毒になる親」を読了した。

毒親」のモデルケース、「毒親育ちの子どもたち」はどのような心理状態に置かれるか、そして「毒親」との「対決」の方法が綴られており、実に「ためになった」。

そして、「毒親育ちの子どもたち」の心理状態というものが、石川氏の著書の中にも見受けられることから、今回改めてレビューを綴ろうと思った。

以前のレビューはこちら。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

 

「事実の否定」「理由づけ」「内面化」

多くの「毒になる親」の子供にとって、「事実の否定」は実に簡単で無意識的な行動である。自分にとって好ましくない事実や不快な出来事、そしてそれにまつわる感情などを意識の外に追い出してしまい、そんな事実はなかったと自分に言い聞かせてしまえばいいのだ。しかしこの女性*1のようにもう少し複雑な形をとる場合もある。それが「理由づけ」といわれるものだ。自分にとって好ましくない、あるいは苦痛となる出来事があったことは一応認めるが、そこに理由をつけてしまうのである。この種の「理由づけ」は、そのような出来事を正当化する時にしばしば無意識的に行われる。

その典型的な例をいくつかあげてみよう。

  • お父さんが私に大声を上げるのは、お母さんがいつもうるさく文句ばかり言っているからだ。
  • 母が酒ばかり飲んでいるのは寂しいからなんだ。僕がもっと家にいてあげればよかったんだ。
  • 父はよく僕をぶったけど、それは僕が間違った方向へいかないようにしつけるためだったんだ。
  • 母がちっとも私をかまってくれなかったのは、自分がとても不幸だったからなのよ。

(「毒になる親」旧毎日新聞社版42ページ。以下版元同じ。)

 

人間の脳は、人から言われた言葉をそのまま受け入れ、それをそっくり無意識のなかに埋め込んでしまう性質がある。これを「内面化」といい、ポジティブな概念もネガティブな言葉や評価も同じように無意識のなかに収納される。するとつぎに、人から言われた「お前は○○だ」という言葉が、自分の内部で「私は○○だ」という自分の言葉に変換されるのである。これは子供においてはとくに顕著で、親のけなしののしりの言葉は心の奥に埋め込まれ、それが自分の言葉となって、低い自己評価や人間としての自信のなさのもとを形作ってしまう。

(「毒になる親」128ページ。太字部分は原著では傍点。)

長くなったが、「事実の否定」「理由づけ」「内面化」について綴っているところを引用した。

毒親」つまり親子関係に限らず、毒オトナ社会、あるいはイダヒロユキ(伊田広行)言うところの「主流秩序」社会において、「事実の否定」「理由づけ」「内面化」はおこっている。

石川優実氏の著書「もう空気なんて読まない」にもまさにこれらのケースが当てはまっている部分がある。

こちらも長くなるが引用。

「自分を大切にしましょう」。言葉だけなら、物心がついてから今日までずっと聞き続けてきた。でも、私はこれが全然できていなかった。表面上だけわかったふりをしていたけど、自分を大切にすることを実行していなかった。

高校生の時、私は性暴力にあった。当時は気がつかなかったけど、今考えたらあれはレイプだった。(中略)混乱したのだけど、店長のこの反応を見て「あ、これは泣いていた私側がおかしいんだな」と思った。何か大したことがあったわけではない。きっとよくあることだし、悲しんだり気持ち悪がったり、大騒ぎするようなことではない。(中略)

だけど、この日から変わったことがある。それは、私から生まれる私の気持ちを完全に無視するようになったということと、私の身体のことを決める権利が自分にはないと思うようになったことだ。特に何か嫌なことがあった時は、そんなふうに思う私がおかしいんだと思うようになった。(後略)

(「もう空気なんて読まない」129~130ページ。太字・大文字強調は引用者。)

一つの性暴力事件が、「事実の否定」「理由づけ」「内面化」を引き起こし、石川氏から生きる自信、自己肯定感を奪い取ったことがわかるエピソードだ。

毒オトナ社会では性暴力だけでなく、「パワハラ」「モラハラ」「マウンティング」などによって当事者の自己肯定感を失う事例がいっぱいある。むろん私自身もだ。

父親から「お前がアホなことしとったから痛い目に遭ったんだろうが」などと罵られ、私自身今でもこの手の「内面化」に苦しんでいる。

怒り。毒オトナ社会への対抗手段として

もう一つの共通的な点が、「怒り」である。

とかく毒オトナ社会では「怒り」は否定されるべきものとされる。それが前述の「事実の否定」「理由づけ」「内面化」につながっていると思う。

でも、怒りだけ抑えるのは、あまり健康的じゃないんじゃないか、と思う。(中略)

また違う視点から見ると、「何をしても怒らない人って都合がいいよね」とも思う。たとえば、浮気をしても怒らない、雑な扱いをしても怒らない、理不尽なことをしても怒らない、緊急事態宣言を出したり終わらせたりまた出したりしても怒らない……。うんうん、とっても扱いやすい奴隷ちゃんたちだ。

(「もう空気なんて読まない」164~165ページ)

 

怒りも他の喜哀楽と同じ、大切な感情だ。怒りをバカにすることによって得をする人は誰で、つらい思いをする人は誰なんだろう。

(同書166ページ)

「毒になる親」においても、「怒り」を管理することが毒親に「対決」を迫るために大切なプロセスであることが綴られている。

1.怒りが起きたら、その感覚を嫌がらず、自分が怒っていることを自分に対して許してやる。(中略)それはあなたの一部分であり、あなたが人間であることの証拠なのだ。

怒りはまた、あなたにとって何が重要なことを知らせてくれるシグナルでもある。それは、あなたの権利が踏みにじられた、あなたは侮辱された、あなたは利用された、あなたのニーズが満たされていない、などかもしれない。また、怒りは何かが変わらなくてはならないことを常に意味している。

(「毒になる親」230~231ページ)

両書において、「怒り」を否定しないことが綴られていることは、まさに「毒オトナ社会への対決において怒りは尊重されるべき」ということを物語っていると思う。

私に当たり散らす父親もまた、「怒り」を適切に管理することを知らず、せいぜい食事中にくだを巻く(せいぜいと綴ったが私にとっては尋常ではないレベルで消耗させられる)くらいしかできない。本当はいろいろ理不尽に怒りたいんだろうにね。その割には政権与党など「上」に対しては変な「理解」をしているんだよなあ…ゆえに「毒親」そして「毒オトナ」の好例なわけだうちの父親。

毒オトナ社会の記録だけではない、毒オトナ社会への「対決」に必要なものも綴られている

以前のレビューでは、「毒オトナ社会の記録本」と綴った石川優実氏の著書「もう空気なんて読まない」。

「毒になる親」を読んだ後に改めて読み返してみると、それだけでなく「怒り」をはじめとして「毒オトナ社会に対決するためには何が必要か」についても綴られているように感じた。

それにしても、今回は引用がかなりの割合を占めてしまった。
しかし、「都合のいい切り取り」などと言われるのもあれなので趣旨を変えてしまわないレベルの略にとどめ、できるだけ正確な文章を引用した。ご了承願いたい。

ちなみに、私自身の「毒親」エピソードは以前のシリーズ連載に綴っている。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

それではまた次回。

*1:引用者注、厳格なカトリック教徒の両親のもとに育ち、十代の頃に人工妊娠中絶をしたために両親からいつまでも悪罵を投げつけられている女性。