おはようございます。Buenos Dias!!
最近更新が滞って申し訳ない…
先日、ツイッタータイムラインであるブログ記事を見た。
ここでいう「誕生学」とは、いわゆる「いのちの授業」というものである。
「いのちの大切さ」「いのちが生まれることは素晴らしい」と説いて回る「ビジネス*1」である。
おばんです。Buenas noches!!
さて、本日、ものすごいニュースがあった。
稲葉剛氏が自身のサイトでまとめて下さっている。
稲葉剛公式サイト » 【改善させました!】「保護なめんなジャンパー」の小田原市ホームページは制度を利用させない「仕掛け」が満載だった。
「HOGO NAMENNA=保護なめんな*1」「あえて言おう、カスであると*2」などと、生活保護受給者への「憎悪ポルノ」に満ちたスタッフジャンパーが小田原市の生活支援担当者の間で作られ、使われていたらしい。
いやあ、これはひどい。
SHAT=「生活保護・悪撲滅チーム」なんだって。
TBSのニュースサイトにはこうあった。*3
小田原市によりますと、2007年、職員が受給者にカッターで切りつけられる事件があり、担当部署の職員らがモチベーションを上げるためにジャンパーをつくったのだといいます。
モチベーションを上げるためねえ…
これは憎悪ポルノの題材だな。
「生活保護受給者には狂人が多い!こんな輩にはこちらも脅しをやりまくるぞ!」というようなね。
実際、小田原市公式ホームページの「生活保護制度について」説明するページには、「まず親族を頼れ。そうでなければそもそも生活保護を申請できない」などとこちらもいろいろと酷い。
常々思う。
これは利用者も支援者・職員もお互いを信頼していないんだなあ。
職員への切りつけも、受給者が「職員から何かいらんことをされるのではないか」と危険を感じてのことだろうし、職員が恫喝するような内容のスタッフジャンパーを製作、使用していたのも受給者にアドバイスなんかより説教・恫喝したほうがいいと思っていたんだろう。
社会不適応当事者が行政機関を信頼できない。
行政機関も社会不適応当事者を信頼できない。
そこから生まれるのは…
HIKIKOMORI。
それにしても、こちら(申請する側)も、普段から自分のことを担当職員に知ってもらう必要がある。
そのことは、今月最初の記事につづった。
sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp
それにしても「HOGO NAMENNA」とは年明けたばかりなのに流行語大賞案件やでえ。
こんばんは。
更新が遅れて申し訳ない…
さて、前回の続き。
前回は「ダウン症の出生前診断」について綴ったが、発達障害についても、同じようなことを主張する声が聞こえる。
主に、「年の差婚夫婦は子供を作るな!」という声である。*1
たしかに、「年の差婚夫婦」からは発達障害持ちが生まれる可能性は高いと言われる。
しかし、「年の差婚夫婦でなければ」発達障害持ちは生まれないのか。
私の両親は3歳しか歳は離れていない。
同じ発達障害持ちである私の友人の両親も6歳離れているが、「年の差婚夫婦」といえるかどうかは微妙だ。
結局、これも確率論でしかない。
確率論だけで「生きる権利」や、「子供を持つ権利」を狭められることなどあってはならないと思う。
それに、児童に限れば、「発達障害持ちに必要な支援・教育の方法」は確立されつつある。
このようなことを考えた時、私は昔、テレビで見た海外ドラマを思い出す。
20世紀はじめのアメリカの、先天的な全盲の夫婦の物語だ。
幼少からはもちろん、夫婦になってからも苦労を重ねてきた。
そんな夫婦は3人の子供を授かる。
子どももすくすく成長するが、末っ子が両親と同じ症状からくる視覚障害に陥る。
しかし、両親は絶望しなかった。
自分たちの生きてきたことを末っ子にも伝授すればいいし、それに時代は進んでいて視覚障害者たちを社会的に支援する制度も出来上がっていたからだ。
本当に思うんだよなあ…
子供がダウン症かどうか調べることを煽ったり、発達障害持ちが生まれるからと「年の差婚夫婦」に「子供を作るな」と怒鳴ることよりも、これら当事者が生きていけるための社会的支援を整えるべきではないかと。
本日は以上。Adios amigos!!
こんばんは。
今日は私がふと思ったことを綴る。
よく、経済学で「トリクルダウン」という言葉が使われる。
「富裕層が経済活動、主に消費をすることで、経済的に苦しい層にも恩恵が得られる」という意味だ。
昨今の経済格差問題から、「トリクルダウン」は否定されつつある。
しかし、一つだけ「トリクルダウン」が当てはまる事項がある。
それは「雇用の創出」だ。
富裕層の中でも、ビジネスの才覚にあふれた人が事業を興す。
あるいは才覚にあふれた人が巨万の富を得る。
事業を永続したいと考える。
そうすると人を雇う必要がある。
そうすることで経営者は事業の永続、そして更に事業を巨大化させることに専念できるからだ。
アダム・スミス以来言われている「分業」である。
分業を進めれば、富もなく、技術も才覚もない人も「社会貢献」ができるのだ。
先ほど「トリクルダウン」は否定されつつあると綴ったが、それは昨今の富裕層の事業拡大が、雇用創出を伴っていないからではないか。
私が大学時代、就職活動をしていたころだ。
すでに「就職氷河期」という言葉がさんざんに言われていた。
そして、「雇われないのであれば自分で事業を興せばいいじゃない」と、「マリー・アントワネットが発言したとされている言葉」をほうふつとさせるような言葉も盛んに喧伝された。
しかし考えてもらいたい。
事業を興すには「富と才覚」が不可欠である。
この世に生きる人のすべてがそういうものを持ち合わせているとお思いだろうか。
だから、トリクルダウンは否定されつつあるのだ。雇用創出ができなければ、そこから新たな才能も開花しないだろうし、経済が発展しないから。
支離滅裂で申し訳ないが、これが私の「トリクルダウン」考である。
それではまた。