ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

今度の「24時間テレビ」おちょくり企画は「あれ」がテーマ。今回はこのことについて少々綴る。

こんばんは。¡Buenas noches!

さて、来週の今頃は日本テレビでは「24時間テレビ」のフィナーレですね…
うちの恋人は「嵐」が好きなのでめっちゃ楽しみにしているわ…

もちろん、私自身はこんなのくそくらえ、「バリバラ」のおちょくり企画のほうを楽しみにしているので…

さて、今回のおちょくり企画の内容が明らかになっている。

【生放送 午前0:00~2:24*1 】2.4時間テレビ 愛の不自由、

これまでバリバラが伝えてきた中で多かったテーマが恋愛やセックス。感染症リスクで“チューするのも命がけ”、事故で足が開かなくなり“23年セックスレス”、自分が“性の対象として見られていない”寂しさ・・・。その愛の形はいま多くの人が直面している課題にもヒントを投げかけてきた。そこで、多様性の時代2020年を前にした夏の終わりの深夜、アーカイブ映像を軸に生放送で本音トークを展開!愛はワタシを救う?

 そう、「セックス」がテーマなのよね…

今回は私も「セックス」について思うことを綴ろうと思う。
というわけで、結構性的な表現も含むため記事を折りたたむ。

 さて、私が「セックス」について思うことはね…

果たして、「入れ」て、「出す」ことは必要なのかな?

ということ。

よくね、「性行為・性的虐待ビデオ」なんかでは女性器が壊れそうなくらいに「ピストン挿入」を繰り返し、最後にはわざわざ女性器の外で射精、いわゆる「ぶっかけ*2」をやるんだけどさ、これってさあ…

女性の側は全然気持ちよくないよね。

私にとってセックスというのは「パートナー同士が気持ちよくなること」だと思っている。
しかし、わが国ニッポンに流通している「性行為・性的虐待ビデオ」では男の側だけが気持ちよくなっている気がしてならないんだ。

「パートナー同士が気持ちよくなること」に、「『入れ』て、『出す』」ということは必ずしも必要なものではないのではないか。

私は恋人と「さわりっこ」をときどき嗜んでいる。
「『入れ』て、『出す』」ことのない性行為。

むろん、恋人が「あまりさわってほしくない」と言ったときはやらない。
いわゆる「性的同意」だ。
前回綴った記事にも参考リンクとして「石川優実」氏がこのことについて綴った記事を載せたなあ。

wezz-y.com

話を戻す。
「さわりっこ」だけでも十分楽しい。
まず、お互いの手と足を触りあう。
そのあと、恋人の大腿部や腹部を触ってあげる。キスも交えて。
今の関係では大体ここまで。まだ結婚もしていないし。
「入れ」て、「できっちゃった」らそれこそあかんでしょう。

本日はここまで。お休みなさい。

*1:引用者注、24日土曜日の深夜、ETV特集のあとです。

*2:これ、「Bukkake」と国際語にまでなっているんだよね…