こんばんは。Buenas noches!!
朝夕めっきり涼しくなった。
これでブログ更新頻度も高まればいいのだが…
がんばります。
最近、朝のお弁当のおかずに「卵焼き」を自分で作ることが多い。
6月に母親が入院したことをきっかけに、自分で弁当を作ることが多くなったのだ。
で、その「卵焼き」で思い出すのが、小学校時代の「道徳」授業においてまさに「卵焼き」をテーマにしたエピソードを習った覚えがある。
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ある少女がお弁当のおかずに「卵焼き」を作ってほしいと不満を漏らしました。
父親は少女の態度に激高し、殴打しました。
その晩、父親は当時高価だった卵を買い、翌朝卵焼きを作りました。
少女は父親の本当のやさしさに心を打たれ、進んで家のお手伝いをするようになりました。
めでたしめでたし。
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おえええええっ~~~~~~~~~~~~
ゲロ以下の臭いがぷんぷんするぜぇ~~~~
殴打しておきながら裏で少女の要望に応えるって、「ツンデレ」かよ?
当時は「ナルホド、親ハ大切ニシナケレバナラナイナ」と素直に思っていたが、「毒親」問題が深刻な現在では本当に「ゲロ以下の臭い」が充満する品物だわ。
それにしても、「道徳」科目は必修になるんだよなあ…当時は半ば「自習のお時間」的な扱いだったけど。
さて、本日の「毒親の条件」は、私の父親の生い立ちを綴る。
第7回「私の父親」
私の父親は1947年(昭和22年)、福井県福井市で生まれた。
れっきとした「団塊世代」である。
ちなみに父親の父親(つまり私の祖父)は当時非合法だったプロレタリア系政党の党員だったという。
父親は中学校卒業後、すぐに大阪へ就職した。
いわゆる「金の卵」の「集団就職」だった。
父親は職を転々とした。「終身雇用」なんて嘘っぱちだ
父親はとにかく底辺とされる職種を転々とした。
ほとんど「日雇い労働」に近いものであった。
縫製工場の下働き、鉄工所の危険な部署での作業、そして建設ラッシュ真っ只中での建設現場…
あくまで私が父親から聞いた分のケースである。
本当はもっと多数の職場で働いていたという。
ここらへんで、もう「終身雇用」なんて嘘っぱち、少なくとも「該当しない人も多数いる」ということは言えるかと思う。
安定した職に就くものの、定年まで平社員の月給だった。「年功序列」も嘘っぱち
その後、父親は電気機器の部品メーカーに正社員として入社する。
待望の「安定した職場」だ。
それから数年後、父親は母親と結婚、公営住宅を借りて私と弟をもうけた。
ただ、父親は定年までほとんど給与が上がることはなく、はっきりいって「平社員」に毛が生える程度でしかなかった。
ここでも、「年功序列」なんて「そんなものはなかったぜ」と言えると思う。
ちなみに、この会社には定年後も「嘱託」として勤務していたが、倒産した。
「定年退職(円満な形での)」することは結局できなかった。
他人にも、そして支援制度にも頼ることは出来なかった
電気機器部品メーカーに入社するまで、職を転々としたことは先述の通り。
むろん、現在で言う「非正規雇用」なので、生活は安定しなかった。
実際、父親の話では「屋根裏部屋」で寝食していたという。
当時、労働基準法や労働安全衛生法などの労働法制や、生活困窮者への支援制度も整備されていたはずだったが、父親はそれを「権利」として利用しようとしなかった。
それどころか、「そんな支援制度を利用することは恥だ」という意識を持っていた。
なぜなら、父親の父親は「生活保護の受給者」だったから。
それで学校では級友から「いじめられる」ことが多かったらしい。
私に対して「『権利』というものは『義務』を果たした者への恩給だ」「人や支援制度に頼ってどうする」とか言っていたのはこういう生い立ちからくるものかもしれない。
最後に
そんな父親も今年70歳になった。
そして30歳のときに生まれた私は40歳になった。
もう、いつ「あの時」がきてもおかしくない。
いろいろ「毒親」と言ってきたが、せめて最後だけは父親に報いたいと思っている。
次回は最終回になります。