ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナの条件・第16回「映画『スタンド・アップ』評~これは『毒オトナの見本市』として見るべき」

おはようございます。¡Buenos dias!

それにしてもここ大阪は連日37~38℃前後の暑さ。
それも大阪だけではなく全国各地がこんな調子。
今年は落ち着いた暑さになると予想されていたんだけどなあ…

さて、私の友人の一人は、私によく映画のDVDを貸してくださる。
その作品はいわゆる「社会派」といわれるジャンルのものが多い。
この間は韓国映画「タクシー運転手」のそれを貸してくださった。

さて、今回綴るのはその方がだいぶ前に私に貸してくださった映画DVDの話。
以前から記事にしよう記事にしようと思っていたがなかなか文章や構成が練り切れずだいぶ時間がかかってしまった。

なお、多分に映画作品のネタバレが含まれるため、記事を折りたたむ。

 

映画「スタンド・アップ」評~これは「毒オトナの見本市」として見るべき

今回、紹介する映画は「スタンド・アップ」。
性労働者の人権と尊厳をかけた闘いを描いた映画である。

スタンドアップ (映画) - Wikipedia

主人公は二人の子どもを抱えるシングルマザー。前夫からの暴力(ドメスティックバイオレンス)に悩まされ、シングルマザーとして生きる決意をした。

主人公が選んだ職場は「炭鉱」。地元の金属・鉱山企業の下で働くことになった。

性労働者からの嫌がらせ

そこには主人公のほかにも女性労働者が数人おり、企業は「女性労働者も働く『ダイバーシティ』実践企業」であることをアピールしていた。

しかし実態はひどいもので、炭鉱という職場はまさに「男社会」が凝縮しているところであった。
主人公たち女性労働者のロッカーには「女性の自慰用具」が放り込まれ、ロッカールーム壁面には女性器を意味する卑猥語の落書きが絶えず、また女性労働者たち自身も男性労働者からの「性的な目線」に曝され続け、「セクハラ行為」も後を絶たない。

あまりにも腐りきった「元カレ」

性労働者の中には主人公の「元カレ」もいた。

「元カレ」は主人公と「よりを戻そう」と企んでいた。
それも、「子どもたちも引き受けて彼女のことを支えよう」というのではなく、「彼女と『ヤリたい』」という態度。

他の男性労働者と結託し、「二人きり」の状況を作ったうえで主人公に執拗に「関係」を迫った。

「人間のクズ」とはこの人のための言葉だなあと思ったね。

あまりのひどさに訴訟を決意するも…

それでも、女性労働者たちは「タフさ」と「女性労働者の代表としての交渉力」を持ち合わせたリーダーの下、耐え抜いてきた。

しかし男性労働者の嫌がらせ、「ハラスメント」はエスカレートし、主人公は我慢の限界に達する。
訴訟を決意したのだ。

しかし、ほかの女性労働者たちは「自分も訴訟に参加したら男性労働者、そして企業からのさらなる『ハラスメント』に曝される」と、主人公には協力できないという。

また、リーダーの女性労働者も、実は難病に冒されていることが発覚する。

主人公は弁護士に相談するも、「勝ち目は薄い。集団訴訟に持ち込めばなんとかなるのだが…」と返されてしまう。

まさに「四面楚歌」…
主人公は自暴自棄に陥ってしまう。

そして裁判が始まった。

「お前は勇敢な『赤』か!臆病な『黄色』か!」

案の定、被告となった企業側はとにかく「主人公側の落ち度」、特に性的なそれをまくしたてる。

性労働者も口裏を合わせたように「セクハラ、嫌がらせの事実はなかった」と証言させられてしまう。

そして、それはついに主人公の「過去に受けた傷*1」にまで触れられる。

その「過去に受けた傷」まで「主人公の落ち度」だとして証言しようとする「元カレ」に対し、主人公のために闘うことを決意した先述の弁護士がこう喝破する。

「お前は一体どっちなんだ?勇敢な『』なのか!?それとも臆病な『黄色』なのか!?」(意訳)

この言葉に私は「シビれた」。
「赤」というのは負傷し、傷口から流れる血の色。傷ついてもなお勇敢に闘う証。
「黄色」というのは怖気ついて漏らしてしまった小便の色。立ち向かう勇気もない臆病者の証。

これはすなわち「主流秩序」の話だと思った。私がこのセリフを考えるなら…

「お前は『主流秩序』から脱して人間の尊厳のために闘うのか!?それとも『主流秩序』にしがみついて尊厳が傷つけられるのを黙認、いや傷つけることに加担し続けるのか!?」

うーん、長いな…
「赤」か「黄色」か、という表現はこのことを短いフレーズで見事に表現しているなと思ったわけである。

こうして明かされた驚愕の事実から、傍聴者、そして一部労働者が「自分も原告になる」と宣言、「集団訴訟」として扱われ、主人公は勝訴を勝ち取る。

これを「勇気ある女性の物語」として見るべきではない。「毒オトナの見本市」として見るべきだ

私は、この映画を美談、「勇気ある女性の物語」として見てはならないと考える。

なぜなら、そういう見方はいわゆる「感動ポルノ」だからである。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

 

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

主人公は勝訴したものの、自分の尊厳を「ずたずたに」引き裂かれている。
作中では自暴自棄になり、裁判でも「自分は性的にだらしない人間」であることをいろいろ「証言」されている。
この「傷」は、これからも癒えることはないだろう。

こういうことを考えると、「勇気ある女性の物語」として片づけることはむしろ失礼ではないかと思う。

では、どういう映画として見るべきか。

「毒オトナの見本市」として見るべき。
あるいは「世界よ、これが毒オトナだ」として。

  • 性労働者の実態を無視し、「自分のところはダイバーシティ実践企業でござい」とアピールする企業および経営陣
  • いろんな形で女性労働者たちの尊厳を傷つける男性労働者たち
  • 自分が攻撃の標的にされるのはたまらないからと主人公の闘いへの参加を渋った女性労働者たち
  • そして驚愕の事実、主人公の尊厳をずたずたに引き裂いた「あれ」

見事なまでの「主流秩序の住人たち」、本ブログでいうところの「毒オトナ」の生態そのものだ。

繰り返すが、こういう部分を無視して単に「勇気ある女性の物語」として済ますことは作品の本質を見誤る。

さて、「感動ポルノ」といえば、今月下旬の「24時間テレビ」、そして「バリバラ」が同番組をおちょくる企画、またやるんですよね。
…って思ったら、今春から放送時間が変わって日曜夜ではなくなったんだった…

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

それではまた。

*1:その具体的な内容は是非作品本編を見てほしい。まあ参考リンク先のWikipedia記事にネタバレがあるのだが…