ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

以前、弊ブログ読者からコメ欄で紹介された映画を見た。

こんばんは。

以前にコメ欄で紹介された映画を見てきた。

こちらの記事でも紹介している映画。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

以下、ネタばれになるため、記事を折りたたみます。

映画「校庭に東風(こち)吹いて」の感想

(なお、感想といっても、映画の中身についての詳しい描写はほとんどない。あくまで「私が感じたこと」を綴る。どんな映画なのかについてはリンク先を参照してください。)

場面緘黙症

本作品には、「場面緘黙症の女子生徒」が登場する。
場面緘黙症」は、私自身、池上正樹氏の「大人のひきこもり(講談社現代新書)」でその存在を知った。以下、引用する。

緘黙」とは、ある特定の場面になると何も話せなくなる状態のことで、「場面緘黙症」とも呼ばれている。中には特定の場面だけでなく、家族も含めて、すべての場面において話せなくなる「全緘黙(症)」の状態になる人もいる。

こうした緘黙症の人たちの存在は、これまではほとんど知られていなかったが、実は潜在的に多いかもしれないことがわかってきた。しかも「大人になれば、自然に治る」と専門家から言われてきたのに、何年経っても状況は本質的に変わらない。それどころが、大人になると学校での問題から離れ、本人の生涯にわたる大きな問題になり得ることも明らかになってきたのだ。

物語は、この「場面緘黙症の女子生徒」と主人公である担任の教師を中心に進んでいく。

「子どものことは私が一番知っている」と叫ぶ勘違い親

女子生徒が抱える病にして悩みでもある「場面緘黙症」。
担任の教師は生徒とともになんとか学校のクラス仲間として打ち解けられるよう尽力する。

女子生徒の母親ともコンタクトを取ろうとする担任だが、母親は語気を強めて言う。
「余計なことはしないでください。子供のことは、親である私がよく知っています」

でた~、伝説の至言「子供のことを一番よく理解しているのは私だ」!

これは、世の母親、父親が少なくない割合で思っていることだろう。

私に言わせれば、それはただの勘違いだ。
実際、私の父親も「俺はお前のことを一番よく知っているんやで!!」と口論になったときに絶叫するのだが、例えば「発達障害」について書物を読むなり専門家などに尋ねるといったことをするのではないかと思うのだが、全くしていないので信用に値しない。*1
私の主治医の心療内科医にも、「父親ニ私ノ特性・障害ニツイテ話シテモ、無駄ダト思イマス」と言っている。いつも「お前がしっかりしないからだ」と言ってこちらの言い分を聞かないからだ。

そういえば劇中でも、女子生徒の母親が彼女に「あんたがしっかりしないから云々」というシーンがあったなあ。

なぜ、こんな勘違いを世の親たちがしてしまうのか。
それは、「世間」が怖いから。
世間様から「あいつはまともな子育てができないのか」と後ろ指をさされるのが怖いから。
そして、自分の子供が「普通とずれている」ことを世間様は理解してくれないので、せめて子供自身には「お前の理解者は私しかいない」と親はすり込もうとしているのだと思う。

無論、そんなことはシリーズ「私と発達障害」で見ればわかるように、幻想でしかない。

あと、そんな勘違いをし続ける母親に対し、女子生徒が怒りをぶちまけるシーンがあるが、これは涙なくしては見られへんでえ。

やっぱり苦しくなったら社会福祉を受けること、そして相談窓口などを知ることは大事だなあ

場面緘黙症の女子生徒」の他に、本作品ではもうひとりの生徒についてもクローズアップがされている。

それは、「母子家庭で、母親がバイトを掛け持ちしていて夜遅く帰るため、服もろくに買ってもらえない男子生徒」。

本作品の中盤で、その母親が過労で倒れかかるシーンがある。
駆け付けた担任が看病しながら、状況を尋ねてみると、「離婚した夫の借金を背負わされた」「生活保護を受けようと申請を出そうとしたが、『あんた働き口ないのかい?』『借金返済に使うつもりか?禁止されているので却下』などと言われた」と打ち明ける。

そこで担任は代わりに状況を聞き出したうえで生活保護受給を申請する。
そして、ある弁護士に相談し、「離婚した夫の借金を返済する義務は彼女にはない」というアドバイスをいただいたことを手紙にしたうえで、「法テラス」などのパンフレットなどを送付する。

こういった制度を知っているかどうか、これは「公認されない社会的弱者」にとって非常に重要だなあと感じた。
制度利用や、市役所での窓口申請については、日を改めて綴りたいと思う。
こちらは年金受給や支援制度を自力で利用してきたからね。

場面緘黙症や母子家庭など、「世間とずれている」カテゴリーの生徒にとって、学校というものは「恐怖の館」である

私自身もそうだったのだが、「世間とずれている*2」子供たちにとって、学校というものは…

「恐怖の館」

と言っても過言ではない。

  • 人と違う特徴が目立つ
  • 人と違う生い立ちだ
  • 人と接したくない
  • etcetc…

こういう人たちにとって、集団生活をさせることによって「一定の形に均質化させる」装置である学校は恐怖以外の何物でもない。

実際、本作品でも、こういう「ずれた」生徒たちのために担任はいろいろなことに取り組むのだが、上司である校長や教頭が「こういうことはやめてもらえませんか。うちの学校の評判が落ちる」「世間様に顔向けができなくなる」「勝手なことをやってもらっては困る」など、「事なかれ主義」が服を着て歩いているとしか思えない態度で担任と対立する。

こういう学校の自称「責任者」が、IJIME事件で誰かが自死してしまったときに「IJIMEがあるとは思わなかった」「問題があるようには思えなかった」とかいうんだろうなあ…

劇中では、同僚の教師と焼き鳥屋で飲みに行っているときに、同僚の一人が「イギリスでは親や自治体を巻き込んで学校内の問題を解決すると聞いた」と話すシーンがある。

むろん、海外のシステムを採用しただけで問題が解決するとは限らないのだが、少なくとも、「ずれた」生徒を「均質化」させようとする日本の教育システムは恐ろしいと言わざるを得ない。

最後に

まあ、最後はハッピーエンドで終わるのだが、場面緘黙症の当事者が大人になると深刻な問題になることは上記の引用文献にて克明につづられている。
それこそ「HIKIKOMORI」へまっしぐらだ。

それにしても、いい映画だった。ただただいい映画だった。

それではこれにておしまい。

*1:劇中では、この母親は場面緘黙症に関する文献などを漁り、カウンセリングなどを受けさせていたが、いずれも「こういう子供をもって世間様に顔向けできない」という強迫観念からとしか思えなかった。真に子供のことを知ろうと取り組むのなら、本を読んだうえで、子供たちといろいろ「話し合う」べきであろう。

*2:本作品のケースでは、場面緘黙症当事者と母子家庭の子供。