ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

就職氷河期戦線異状あり④あの時、大量解雇容認に社会がシフトしていた…岩波新書「ルポ解雇」の感想も交えて

こんにちは。Hola amigos!!

先月、紹介した「すさまじいブログ」こと「VOSOT(ぼそっと)プロジェクト」。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

 当該ブログの管理人の方に「弊ブログのおすすめサイト・ブログ欄に貴ブログのことを紹介してよろしいでしょうか」とコメントを綴ったら、快諾をいただけたので当該欄にリンクを掲載する。
ひょうしょうじょう!!

さて、今回は先日「現在読んでいる」と綴った岩波新書「ルポ解雇」の感想も交え、私が直面した2000年代の就職氷河期はまさに「雇用慣行のプロスポーツ化=大量解雇容認」にシフトしていたことを綴りたい。

それにしても、毎度毎度、更新が遅れて申し訳ない…

就職氷河期戦線異状あり④あの時、大量解雇容認に社会がシフトしていた…

突然だが、今後は私が直面した就職氷河期のことを勝手ながら「2000年代就職氷河期」と名付けようと思う。

2000年代就職氷河期がなぜ起こったかということについては、よく「当時正社員として支配していた『団塊世代』が保身と既得権益保護を図ることを目的にしていたのだ」とまことしやかに綴られることが多かった。

つまり、「『団塊世代』の保身のあおりで2000年代就活組はひどい目に遭った。この問題解決のためには『団塊世代』も大量解雇されてしかるべきなのだ」という話である。

「解雇」「リストラ」という言葉が簡単に口から出るような社会。
それが「2000年代就職氷河期」の社会状況だった。

そんな時期、当時の政権与党も「解雇」というものをよりやりやすくしようと法改正を試みようとしていた。
「改革」「既得権益の打破」という名のもとに。

その状況のルポが岩波新書「ルポ解雇」である。

「企業は本来従業員解雇を自由にできる」と労働基準法を変えようとしていた

本書には、当時の労働基準法に「解雇に関するルール」を設けようとしている背景として、1999年から2000年にかけての労働裁判において「企業の従業員解雇は本来自由」という判決が相次いでいたことから綴られ始めている。

そして、それを踏まえて、当時の改正草案では「解雇に関するルール」は以下のような文言だったという。

「使用者は、この法律又は他の法律の規定によりその使用する労働者の解雇に関する権利が制限されている場合を除き、労働者を解雇することができる。ただし、その解雇が、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」(P126)

「従業員の解雇は本来自由」を法律面でも追認するような内容になってしまっていることは否めないと思う。
いわば「従業員を解雇できる条件のネガティブリスト化*1=原則自由化」といえる。

その後、国会審議を経て、以下の文言として成立したという。

「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用としたものとして、無効とする」
(「労働基準法」第一八条の二.二〇〇三年六月二七日、参議院で可決成立)
(P162)

「使用者は労働者を解雇できる」の文言が外されたのは評価していいだろう。
しかし、本書における「解雇」の手口は本当にひどいものばかりだ。
事実を捻じ曲げるのみならず、事実でないことまででっち上げて「解雇」しようとするのだから…
こればかりはいちいち弊ブログで引用すると長くなるので、ぜひ本書を読んでほしいと思う。

「解雇の容認・自由化」を各界が渇望していた2000年代就職氷河期

本書では、ある「プロ野球の球団オーナーとしても知られる企業の経営者」へのインタビューが掲載されている。
その一部を引用する。

-これから解雇は増えるでしょうか。

「解雇はどんどん増やしたほうがいいと思うんです」

-えっ。

「解雇を絶対的な悪だと否定しないほうがいい。解雇できないと、新たな雇用もできないですから。いったん雇用したが最後、会社にまったく利益をもたらさなくても定年までいるというのは、これは最悪ですからね」(P170-171)

 なぜ、この経営者はこんな考えに至ったのかも綴られている。

「私はそもそも安定したものはないと思っています。あした安全だという保証はない。極端な話ですが、地震が起こるか、車がぶつかってくるか、わからないわけです。安定を望むなら、それを企業に求めるのではなく、やはり自分の努力です。それしかありません。
 私も下手をすると明日でもつぶれるかもしれないと思って企業経営しています。個人も自己責任でがんばる。みんな自己責任で相競いましょう。そして、そこから独り立ちできない人は、豊かな社会が助けてあげましょう、と。過激なことを申しあげるかもしれませんが、私にとっては普通の話です」(P174)

 企業経営者がこういう考えに至ることは悪いことではない。
問題は、この経営者氏が語る「自分の努力がすべて」という思想が、「社会的恫喝」という形で蔓延してしまったことにあると思う。
いわゆる「自己責任論」。

「解雇はもっと容認されるべき」という論も「自己責任論」の延長上で形成されてきたものだ。
「結果を出せない人間は首にされてのたれ死んでも仕方がない」、以前綴った「雇用慣行のプロスポーツ化」である。

滑稽なのは、企業経営者だけでなく、私も含まれる当の就職氷河期世代もこの論を受け入れてしまったことであろう。
あのころの政権与党が叫んでいた「改革」は、本当に希望に満ち溢れていたからなあ…
いまとなっては笑い話だが。

次回に続きます。

*1:以前の記事で労働者派遣に関することで「ポジティブアクション」「ネガティブアクション」と綴っていたことは「ポジティブリスト」「ネガティブリスト」の誤りでした。お詫びの上、当該表現を訂正します。