ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナ社会の解きかた(3)笛美著「ぜんぶ運命だったんかい」レビュー…前回に続き秀逸な「毒オトナ社会の記録本」

おはようございます。¡Buenos dias!

2021最後のブログ更新です。

今回もシリーズ連載「毒オトナ社会の解きかた」。

ツイッターで有名になった匿名の広告業界に勤める女性、笛美氏の著書「ぜんぶ運命だったんかい」のレビューを綴る。

 

ぜんぶ運命だったんかい…これまた秀逸な「毒オトナ社会の記録本」

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今回読んだ本の表紙です。

前回、石川優実氏の著書「もう空気なんて読まない」のレビューを綴った。

 

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

 

今回は友人からお借りして読ませてもらった「ぜんぶ運命だったんかい」を読了したのでそのレビューを綴ろうと思う。

ニッポンの毒オトナ社会に適応した女性の証…「結婚」

副題には「おじさん社会と女子の一生」とある。

ここでいう「おじさん社会」とは、本ブログで綴っている「毒オトナ社会」とほぼ同義だということを感じた。

広告業界のクリエーターとして働く笛美氏は、どれだけ最前線で活躍したいと思っていても半人前の扱いばかり。その経験から綴られる広告という仕事のありようはなかなか読みごたえがあった。

そして、「おじさん社会≒毒オトナ社会」の女性として「一人前」になるには「結婚」をしなければならないと、結婚相談所に入会する。

「婚活」に失敗…「生きていてごめんなさい」

そして「婚活*1」にのめりこんだ結果、失敗した。

  • 笛美氏にふさわしい男になろうと激務を繰り返しすれ違いから別れる
  • 「そういうの重いんだよね」「自分の趣味ないの?」といわれ糸が切れる
  • 「農家の嫁」になろうとしても、「農家に入ってくれる人がいい」とけんもほろろ

やがて、氏は「生きていてごめんなさい」と思うようになる。

地下鉄を待つ間、エレベーターに乗っている間、食堂に並んでいる間、よく頭に浮かんでくる声がありました。

「生きていてごめんなさい」

誰かに謝りたかった。誰にかはわからないけど。(118ページ)

 

やっぱり女は30過ぎたら、生きてる価値なんてないんだ。

結婚も出産もできない女は30で寿命が来て死ねたらいいのに。

でも健康診断の結果は忌々しいほど立派で、何の問題も見つからないのでした。(120ページ)

 

「生きていてごめんなさい」
これは私もHIKIKOMORI時代に感じたことだ。

父親から、バイト先の上司から、近所の人たちから、

  • お前はいったい何をやっているんだ
  • 本当にどんくさいなあ
  • 実は生き損ないじゃないのか

などと散々に責められた。

「お前は生きていく価値などない」とひたすらに責められたから。

「F国」にて、毒オトナ社会の正体を知る

そのような心境にさいなまれた後、笛美氏はヨーロッパの「F国*2」の会社にインターンに行く。

そこでは、仕事も家事も育児も、男女がみんな受け持つ社会であり、育児をする男性が「イクメン」と特別扱いされることもない。

職場でもプライベートを優先させて定時に帰宅するのは当たり前。長々しい会議もない。

そして、ニッポンとF国の違いをいろいろと見つけ、考えていくうちに、こうつぶやく。

……ぜんぶ運命だったんかい。

私の運命は、この社会の構造*3の上に敷かれたものだったんだ。(144ページ。太字・大文字化は引用者。)

 

「脱・主流秩序」の側にいることの自覚。そして「おじさん社会≒主流秩序≒毒オトナ社会」の手ごわさも自覚

その後、ニッポン国内で「ツイッターデモ(ハッシュタグデモ)」に参加し、「#検察庁法改正に抗議します」のハッシュタグデモでは仕掛け人となった笛美氏。

本書終盤ではこのように綴っている。

いま私は20代の自分が思い描いていた崖の下を生きています。きっとあの頃の私がいまの私を見たら、「人生に失敗して政治的な発言をするようになった残念なおばさん」という印象を持つでしょう。でもここは崖の下にしてはあまりにも穏やかです。昔といまの免許証の写真を比べると、まるで保護猫のビフォアフターのように見えます。20代の頃の写真は髪にも肌にも力がなく、表情も悲壮感が漂っています。でも今の写真は髪も肌もツヤがあって、無理のない笑顔でこちらを向いています。恐れていた崖なんか本当はなく、ちょっとした凸凹だったのかもしれません。(292-293ページ)

ここでいう「崖の下」は、まさに「脱・主流秩序の領域」ということなのだろう。

「主流秩序≒毒オトナ社会」から一人前と認められることが金輪際ないであろうという領域。しかしその領域は穏やかで、ことのほか「生きづらく」ない。

本当はニッポンの、この世に生きる人々が「脱・主流秩序の領域」に移ればもっと「生きづらさ」から解放されるのだが、ことはそう単純ではない。本ブログでも綴っているように、「自分は毒オトナ社会の主流秩序の側の住人だ」とアピールするべく「脱・主流秩序の側」からの訴えを誹謗、揶揄する人が多いのが実態だ。前回綴った石川優実氏へのそれなんかまさにそうだ。

笛美氏はこう綴る。

ただひとつだけ確かなのは、日本社会の変革は、私の出産可能年齢には間に合わないということです。今後もおじさん有権者がおじさん政治家に自分たちの都合のいい政治をさせ、多くの人がそれに気づかないまま、気づいていてもどうせ変えられないとあきらめて生きていくのかもしれません。

(中略)

もし日本が働きやすく産みやすい国であったなら、別の運命があったのか?もしF国みたいな国に生まれていたら?日本人に生まれたとしても、若いうちから女性差別のない国に移住すればよかったのか?選べなかった人生をあれこれ想像していると、いまの日本で子供が生まれるというのは、もはや奇跡みたいだと思います。

だからせっかく生まれてきてくれた子供に、せめてまともな国を残してあげたいし、産んだ人に苦しい思いもしてほしくない。産んでない私のことも否定してほしくない。

日本のどこかで悩んでいる誰かにフェミニズムの風が届くように、誤解され恐れられ笑われながら、自分なりの小石を投げ続けようと思います。(293‐295ページ)

 

まったくその通りで、その事実はたとえ新型コロナウイルス関連の政策が失策続きであっても政権与党(そして「維新を名乗るナニワのトランピズム政党」)が支持され続ける結果となった今秋の衆議院議員総選挙の結果からもよくわかる。

そしてそれは「出産可能年齢」どころか数世紀の時間を要しないと変わらないだろう。

最後に

2021年最後の記事として、笛美氏の著書のレビューを綴った。

上記の引用部分こそ、私がこの一年間を通じて悟ったことである。

私は「脱・毒オトナ社会(主流秩序、おじさん社会)」の声をこれからもブログ等を通じて発信するだろう。

しかし、ニッポンの毒オトナ社会はもはや盤石の域である。

それでも私はこの社会を生きる。

せめて「主流秩序」からはじき出された人々も、社会の片隅で生きることを許されるようにしたい。

なお、次回の更新はインターネットの引っ越しもあり、年明け来月の中旬以降となる。

それではまた。

*1:ちなみにこの「婚活」という言葉、考案したのは山田昌弘教授なんだって。「パラサイトシングル」といい、この教授はコピーライターやったほうがいいのではないのか。「レッテル貼り」の専門職なんだから。

*2:ヒントとして、雪景色、凍てつく広大な大地の国とのこと。

*3:引用者注、男女雇用機会均等法が成立した後も、「総合職と一般職」の名のもとに、「男女の差別的役割分業」がずっと温存されてきたことなど。