ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナ社会の解きかた(12)どんなに自己肯定感をはぐくんでも、「内面化されたトラウマ、自己否定感」は消えることはない

こんばんは。¡Buenas noches!

今回もシリーズ連載・毒オトナ社会の解きかた。

今回もまた「内面化」がテーマ。

どんなに自己肯定感をはぐくんでも、「内面化されたトラウマ、自己否定感」は消えることはない

本ブログでもたびたび紹介している、石川優実氏のオフィシャルブログの最近の更新記事にこういうのがあった。

ishikawayumi.jp

その中で、母親のことについてこう綴られている。

私は、親から褒められた記憶がない。
国語で学年1位だった時、高校の入試が2位だった時、専門学校に入るときに学費の一部が免除になった時、映画で主演が決まった時、BBCの100人の女性に選ばれた時、流行語大賞にノミネートした時。
どれもノーコメントだった。
逆に、数学のテストで7点を取ったときも、成績がどれだけ下がっても怒られたこともない。

ただ、人格についての否定はよく記憶している。
私の性格について、いいところを言われたことはなかったけれど、母が私について良くないと思っていることを指摘されたことは何回もある。
「お母さんとお父さんからあんたみたいな性格の人が生まれてくることが信じられない」ということもよく言われた。
そのせいか私は、自分にもいいところがある、なんてことは思いもせずに30歳くらいまで生きてきた。

まさに、「親からの否定が自らの否定につながっている=内面化」の好例。

私も、父親からいろいろと私に「自己否定」を迫るような言葉を投げつけてきた。

確かに、暴力行為をすることはなかった。

しかし、私自身の気持ちを考えることなく、とにかく「世間体」ばかりを気にして私にいろいろと「要求」してきた。

率直に、頑張った時に褒めてもらいたかったなと思う。テストでいい結果が出た時はやっぱりそれなりに頑張った時だったし、だめだった時は努力が足りない時だった。そういう時に、その場その場で興味を持って欲しかったな、と思う。

悲しいことがあった時には、抱きしめてほしかったな、と思う。
私は今、信頼したパートナーにそれを必要以上に求めてしまう傾向がある。
そして、どれだけ抱きしめてもらっても、いつまで経っても安心しきれない。

 

ああ、まさに以前綴った「心の応急手当」を親にやってほしかった、ということだわ。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

いくら自己肯定感をはぐくもうといわれても無理

そして、ブログ後半では、「自分で自分を大切に=自己肯定感」についても疑問を抱いている。

「自分で自分を満たすことが大切」とか言われて、ずっと頑張ってきた。でも、頑張っても頑張ってもキリがない。
自分で自分を満たそうとしても満たされないから困ってるのに、解決方法は「自分を満たすこと」「自分を好きになること」「自分を大切にすること」・・・だからそれじゃ満たされないんだっつーの!とブチギレているのが今である。

 

簡単に「自分を愛しましょう」とかいうけど、そんなのできるんだったらとっくにやってるよ。自分が自分を認めることが大切だ、とかいうけどさ、私は自分よりも人に認められたいよ。自分よりも人に愛されたいよ。(太字・大文字強調は引用者)

最後の大文字強調の一文に私はしびれた。

そうなのだ。いくら自分を愛する=自己肯定感をはぐくもうと思っても、親や、そして世間からいろいろ否定され続け、それを「本来の自分は駄目なんだ」と自己内面化している状況では後者が勝ってしまうのだ。

また「引用ばかり」といわれるかもしれないので、ここで私自身のことについて綴ろう

さて、ここで私自身のケースについて綴ろう。

私自身、親にさんざん否定され続けたのは以前の記事に綴った通り。

親だけではない。大学時代、そして就職に失敗して「HIKIKOMORI」になってからのバイト先でさんざん上司や同僚から、

  • お前本当にどんくさいなあ!知的障害ちゃうか?IQなんぼあんねん?
  • お前本当に物覚えが悪いなあ!俺だったらたった3秒で覚えられるで!
  • なんでお前のような人間が生きているのか俺には理解に苦しむね!

などと言われ続けた。

そして、私に対してだけ人をなめた口調や怒鳴り口調で話されるなど、とにかく私は周りから否定され続けてきた。

現在の職場は私の「自己肯定感」を尊重してくれる職場であることも以前の記事で綴った。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

この記事で、私はこう綴った。

社会に必要とされず、自分から「社会に必要とされる人間になろうともしない」…
HIKIKOMORIと呼ばれる、そんな人間たちがいる。
私も2年前まではそうだった。

だが、こういう人たちも、「社会に必要とされている」実感を得られたら、HIKIKOMORIから抜け出せるような気がすると思う。

しかし、先ほどの石川氏の記事を見、自分自身のことを顧みれば、上の一文は撤回せざるを得ないかもしれない。

つまり、今までさんざんに自分を否定されてきた人たちにとっては、たとえ自己肯定感をはぐくみ、「社会に必要とされている」実感を得られたとしても、それは一時的なものにすぎず、

自己肯定感<自己否定感(内面化されたトラウマ)

の構図は変わらない、ということ。

実際、私は自分を尊重してくれる職場の中にいるが、それでも過去に職場で受けた暴言などによるトラウマは消えず、「現在の職場の人たちも、もしかしたら手のひらを返して私を怒鳴ったり否定してくるかもしれない」という恐怖にかられることがある。

そして頭がこんがらがってどうしようもなくなってしまい、職場に迷惑をかけられないと早退してしまうこともたびたびある。

「どんなに過去にひどい体験をしたとしても、自分に自信を持てばいい」?
ことはそんなに単純ではないことをここで声を大にして言いたい。

それではまた次回。