ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナ社会の解きかた(33)「『非モテ』からはじめる男性学」に載っていた「拙速なアプローチ」って、まさに毒親のアプローチやなあ…

こんばんは。¡Buenas noches!

今年も残り3ヶ月かあ…

今回は最近読んだ本のことを綴りたい。

「『非モテ』からはじめる男性学」に載っていた「拙速なアプローチ」って、まさに毒親のそれやなあ…

その本は、私の友人から借りて読んだ本。

以前綴った「私は男でフェミニストです」を読了したあと、返却したら「これもおすすめだよ」と貸してくださった本。

 

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「『非モテ*1』からはじめる男性学」。

これもまた、興味深く読了した。

「モテなければ人間扱いされない」ということは「企業や団体に『所属』していなければ人間扱いされない」と通底しているなあと思ったし、「第三章 追い詰められる非モテ・自分を追い詰める非モテ」で登場する「自己レイベリング(=ラベリング)」なんて、以前綴った「内面化(「毒になる親」言うところの)」とおんなじやなあと思った。

一部引用。

こうした現象について、「自己レイベリング」という概念を参照しながら考えたい。
「あなたは○○だ」と個人を何らかのカテゴリーに当てはめ、一方的に評価することを「レイベリング」(ラベリング)という。(中略)

こうして他者からなされたレイベリングが次第に自分の中に取り込まれ、抑圧が深化した状態について、社会学者の佐藤恵は「自己レイベリング」と定義した。「自己レイベリング」の過程の中で個人は、他者に貼り付けられたラベルを引き受けて自分で自分を否定し、その上付与された評価通りの人間であると自己定義していくようになるという。(67ページ。太字&大文字強調は引用者。)

参考記事

 

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「女神」への「拙速なアプローチ」が、毒親の子どもに対するアプローチとそっくりな件

その中で、私が一番「面白い」と思ったのは、「非モテ」たちが運よく女性と親しく交際できたときのエピソード。

”女神”。「非モテ」男性を一人の人間として敬意をもって接してくれる女性のことを、非モテ研ではそう呼んでいる。ハーシーさん*2が話しているように、その存在は「人間」とは思えない。これまで女性との交流機会が少なかったゆえに、そして優しく関わってくれたがゆえに、彼は同僚の女性を等身大の個人ではなく女神として神聖視したと話す。

「女神」かあ…私も今の恋人と交際するようになったとき、「ダウン症持ちだけどまさに女神だ」と思っちゃったしなあ…

で、女神に対しては、非モテたちは徹底的に「尽くさなければならない」と考えてしまう。

そこで生まれるのが「拙速なアプローチ」。

「イメージ」や「ストーリー」を反芻するうちに頭では恋愛的な関係になっていないことはわかっているが、気持ちの面では関係性が進展しているかのような自信がせり上がってくる。いわばイメージによって関係性のとらえ方そのものが支配されてしまい、その結果として、「非モテ」男性は拙速なアプローチに走ってしまう。

 

ハーシー:バイトのない日に差し入れを買っていって、バイトで働いているAさんにケーキとかをプレゼントするだとか、誕生日に一万円のピアスを買ってあげてプレゼントしてあげるだとか、バイトの休憩、僕の分をAさんに完全にあげて僕の分も休憩を取らせてあげるとか、すごい献身的にいろいろやってたんですね。

 

一見それはケア的な営みにも思えるかもしれない。実際、「非モテ」男性は本気で相手の役に立ちたいと思っているのだ。しかしケアとは本来相手のニーズや状態を踏まえてなされるものである。相手に頼まれたわけでも、相手が置かれている状況を観察したわけでもなく、それで相手が喜ぶだろう、喜ぶはずだというポジティブ妄想に基づいて実行されている点において、先回り奉仕とケアには大きな隔たりがある。(ここまで118-119ページ。太字・大文字・赤文字は引用者。)

この「先回り奉仕」という言葉、また面白い「命名」やなあと思った。

これって、毒親が「あなたのためを思って」「良かれと思って」子どもに「ケア」をしてやろう、何か買ってやろうとしてくることと同じではないか。

再び参考記事

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その後、「拙速なアプローチ」は身体接触にまで発展する。

手を握る、頭をなでる、抱きしめる、手の甲にキスをする…まだ恋人関係になっていないにもかかわらず、同意を取らずに身体接触をしてしまったという”やらかし”の語りは多い。(123ページ)

さて、ここら辺を読んで、私は田房永子氏の著書(また田房氏かい…)「なぜ親はうるさいのか」に描かれていた母親が中高生時代の著者に慌てるように「おにぎり」を渡してくるエピソードを思い出した。

筑摩書房 なぜ親はうるさいのか ─子と親は分かりあえる? / 田房 永子 著

「弁当がなければ学食などで食べるから」というているにもかかわらず「とにかく持っていけ!」と押し付けられる。
これもまた「拙速なアプローチ」なんだなあ。

話を戻すが、なんでこんな「アプローチ」をしてくるのか、「『非モテ』からはじめる男性学」では「いい関係になったらガンガン行け」「ここで一歩先に進まないと逃げられるかもしれない」などの「世間=主流秩序ならこうするべき」という風潮、そしてホモソーシャルでの「けしかけ」的なものがこういうふうな思考にしているのではないかと読む。

いや、ほんま毒親と同じや。

「オトンカラノ助ケハイラナイカラ」と私が言うても、「いや、俺が助けてやるんだからお前は素直に好意に甘えればいいんだよ!」などと無理やり私に入り込もうとしてくる。
で、そこには世間で作られた「親はこうあるべき」に支配されているのだろうなあ。
ちなみに田房氏の著書における「おにぎりアプローチ」についても、同様の考察が綴られていた。つまり「親はお子さんのご飯をきちんと作らねばならない」という風潮にとらわれて「せめておにぎりでも」と娘に押し付けたのだろうと。

とにかく、本当に一読の価値あり。

終盤では「当事者研究に潜む支配性・暴力性」についての自問自答があり、やはり大事なのは「当事者目線なき者は去れ」なんだなあと思ったり。

それではまた。

*1:以後、基本的には男性を想定する。

*2:引用者注、非モテ研の参加メンバーの一人。