ぶた猫ぶーにゃんの社会的マイノリティ研究所

私、ぶた猫ぶーにゃんの「社会的マイノリティ」について考えるブログです。主に社会的マイノリティ、そして彼ら彼女らを侮辱する「毒オトナ」について綴っています。

毒オトナの条件・第7回「トーンポリシング」

おはようございます。¡Buenos dias!

しかし、今回のシリーズ連載「毒オトナの条件」を綴っていて、私が「毒オトナ」たちから受けた仕打ちを思い出して心が荒んでくると同時に、自分自身も「毒オトナしぐさ」というべき行為をしてしまっていることにも気づいてしまう。

このことについては最終回にも綴る予定。

さて今回は「毒オトナしぐさ」の中でも本当に酷いトーンポリシングについて綴ろうと思う。

第7回「トーンポリシング

トーンポリシング」という言葉はやや聞きなれないが、要は「言うてることはわかるが言い方や態度がよくない」と「諭す」ことで、「弱い立場の人たちが声を上げることを封殺すること」である。

こちらのネット記事に詳しい。*1

「冷静に」なんてなりません!|Erin|note

 弊ブログ過去記事に見るトーンポリシング

実は、弊ブログの過去記事に寄せたコメントにもそういう「トーンポリシング」を披露するものがあった。

sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp

この記事では、何かを社会的に訴える「デモ活動」のことを「社会としては不幸なこと」とコメントの主が寄せていることを紹介したのだが、この裏には、
「デモ活動」なんかやったところで社会に受け入れられると思ってんの?
と半ばバカにするニュアンスが含まれている。

では問いたいのだが、社会的に何かを訴えたい人たち*2が政権与党の代表あるいは内閣総理大臣に丁重に「お話がしたいので会ってくれませんか?」と伝えたところで快く会ってくれるとでもいうのですか?

トーンポリシング」もまた、「マウンティング=相手を見下したい行為」の一形態

このような「トーンポリシング」もまた、本シリーズ連載で以前から綴っている、
「マウンティング=相手をバカにし、見下す行為」
の一種だと思う。

先ほどの過去記事で紹介したコメントには「当事者は楽しくても」とあるが、ようはこのコメント主は「当事者ではない」というわけである。だから見下せる。

トーンポリシング」が、政権与党など「主流秩序の側」に向けられることは決してない

そしてこの「トーンポリシング」のいやらしいところは、「マウンティングの一種」と綴ったように、
常に「下」の立場に対してだけ向けられ、「上=主流秩序」の立場に対して向けられることは決してない
ということ。

たとえば国会において「野党は反対ばかりしているゆえに野党が主張する要望や政策などが受け入れられないのだ」などという「批判」がよくなされる。
しかし、そんなことを言う人たちが「野党に反対ばかりされないためにも、与党の側も野党の要望を多少は受け入れないと」とは絶対に言わない。
なぜなら単に「野党をバカにしたい」だけだから。
バカにして、「自分は与党と同じ立場にいる」ことを確認したいだけだから。

マウンティングにトーンポリシング…すべては「自分は傍観者=非当事者」だからこそできること

今回のトーンポリシングも、以前から綴っているマウンティングも、
「自分はマウンティング、トーンポリシングされる対象=当事者の立場ではない」
からこそできることである。

だからこそ評論家気取りで無責任なこと(=マウンティングやトーンポリシング)が言えるのである。

本当にいい加減にしてほしい。
毒オトナは平然と人を殺せるほどに冷酷な存在である、とシリーズ連載を綴って思う。

それでは。

*1:ちなみにはてなキーワードの「トーンポリシング」記事にも同じ参考リンクあり。

*2:たいていは社会的弱者のカテゴリーに入る人たちである。

毒オトナの条件・第6回「『私は努力して主流秩序に順応した』アピール」

こんばんは。朝夕寒いね…うちもこたつを用意したよ。

第6回「『私は努力して主流秩序に順応した』アピール」

前々回「アドバイスや支援という行為には、少なからず相手を『上から目線』で見下す=マウンティングが孕んでいる」ということを綴った。

今回はそういう「マウンティング」行為の中でも最も嫌らしいものを紹介したい。

「私は努力して主流秩序に順応したんだ!」

皆さんの人生の中で、周りの人や、あるいはテレビや雑誌のマスメディアなどで、こんな言動をしている人はいなかったか。

  • 「私は努力して事業を軌道に乗せ、現在の地位を築いたんだ」
  • 「私は努力してコミュニケーション能力を身につけてきたんだ」

要は、私の師匠「伊田広行」氏がいつも言っている「主流秩序」への順応・従属をアピールしているわけだ。

そしてたいていはこう続くのである。

  • 「だからお前らは駄目なんだ」
  • 「努力できない奴なんて救う必要ないんだ、野垂れ死ね」
  • 「努力しないやつらには『矯正収容』が必要だ」

「はじめから恵まれた環境」にいる人よりも、「困難から乗り越えた」ような人がこんなことを言う

上記のような「私は努力して主流秩序に順応したんだ、主流秩序に順応できないやつらには『社会的制裁』が必要だ」などという言動は、

  • 富豪の家庭で生まれ育つなど、「はじめから恵まれた環境」で生育した人たちには少なく、
  • 母子家庭や貧困状態で生まれ育つ、社会に適応できないなど「困難まみれの環境」を乗り越えて現在の地位を築いた、という人たちに多い。

なぜこんな言動をするのか。

ひとえに「自分のかつて所属していた属性」を見下したいからにほかならない。
要は「マウンティング」である。

  • 「母子家庭で育ちながら努力して困難な環境を乗り越えて一流企業に就職あるいは一流士業になれた人たち」が「母子家庭への公的支援の拡充を求める人たち」のことを見下す。
  • 「非正規雇用でありながら努力して家計をやりくりし、一人暮らしで生計してきた人たち」が「派遣切りに遭って『年越し派遣村』のお世話になっている人」を見下す。
  • 「かつて『HIKIKOMORI』=社会不適応状態だったが、努力して『コミュ力』を手に入れ社会=主流秩序に順応できた人たち」が「HIKIKOMORI」を見下す。

こんな構図がいっぱいあるよなあ。

そもそもどれくらいやったら「努力した」と認定されるの?

「努力して主流秩序に順応した」人たちが努力していない(と思われる)人を見下す構図。

では、どれくらい「努力したら」いいんだろう。
多分見下している当人もわからないと思う。

そもそも努力なんて基本的に「運」と「縁」がからまないと報われることのないものだと思う。

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 前々回に引き続き…

私自身もこの手のアピールをしてしまったことを告白せねばならない。

それは二条淳也師匠に「障害基礎年金の受給」を勧めてしまったこと。

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これもまた、「自分が障害基礎年金を受給できたからお前もやったらどうだい」という「人を見下した行為」になってしまったと今では思う。
本当に申し訳ない。

誰しもが、「毒オトナ」になりかねないことを肝に銘じたいものである。

それではまた。

毒オトナの条件・第5回「自分基準で他人を見下す」

おはようございます。

今年も残すところあと2か月、61日となった。
今年は本当にほとんどブログ記事の執筆ができなかった…本当に申し訳ない。

第5回「自分基準で他人を見下す」

今回はシリーズ連載「毒オトナの条件」の第5回。
テーマは「自分基準で他人を見下す」。

自分自身の経験、そして以前から綴っている「ステレオタイプ」を「元手」にして、他人を侮蔑したりする行為について綴る。

私は発達障害自閉症スペクトラム)持ちで、それに気づくまでだいぶ時間がかかった。
その間、学校で、職場で、たくさんの「毒オトナ」たちから侮蔑を浴びせられた。*1

「俺だったら簡単にできるぞ」

私が「毒オトナ」たちから浴びせられた言葉で一番多かった内容がこれ。

  • 「俺だったら簡単にできるぞ」
  • 「お前みたいなどんくさい人間見たことない」
  • 知能指数(IQ)なんぼあんねん、お前」

つまり、自分(あるいは自分ができること)を基準にして、それができない人たちのことを侮蔑しているわけである。

他者への想像力が欠けている

こういう「毒オトナ」たちは「自分は簡単にできるけれど、他の人は逆に極端に苦手だというケースがある」ということを考えたことがない。

「他者への想像力」が欠けてしまっている。

特に親・親族がこんなタイプであったら(私もそうだ)、もはや生きた心地はしないだろうな…

主流秩序に「酔っている」毒オトナたち

こういう、「想像力に欠けた」毒オトナたちは、

主流秩序に酔っていると思う。

前回綴った「マウンティング」の手法で、自分を基準にして他人を見下すことで「自分は主流秩序に順応できている」ことを確認しているわけですわ。

それではまた。

*1:これらについて詳しいことはシリーズ連載「私と発達障害」を熟読してください。

毒オトナの条件・第4回「『アドバイス』というマウンティング」

こんにちは。¡Hola amigos!

現在綴っている「毒オトナの条件」、「ステレオタイプ」「マウンティング」がキーワードになっているなあ。

というわけで、今回も「マウンティング」を軸に綴りたいと思う。

第4回「『アドバイス』というマウンティング」

前回「マウンティング」について綴った。

「自分は(マウンティング対象よりも)優位な立場なんだぞ」と何らかの形で誇示することであり、主に「相手を見下す言動」という形で表現されるのだが、もうひとつ別の形での「マウンティング」を今回は紹介したい。

それは「支援・アドバイス」という形での「マウンティング」。

人生相談コーナーの嫌らしさ

新聞や雑誌等でよく見かける「人生相談コーナー」。

すべてとは言わないが、相談に対してアドバイスをする側に「嫌らしさ」を感じてしまうのは私だけではないと思う。

「煙草の煙が苦手です」という人に対し「我慢が足りない」、「上司のセクハラに悩まされています」という人に対し「セクハラ受けるのは女性の勲章」とか…
これはアドバイスする側の「マウンティング」であり、また第1回で綴った「遮る」行為といえる。

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そのうえ、「アドバイスする」という「マウンティング」には、もうひとつの「効用」がある。

対象者がどっちの行動をとっても自尊心が満たされる

それは、「アドバイスの対象者」が自分のアドバイスに従っても、従わなくても、アドバイスする側の「自尊心」が満たされること。

  • 対象者がアドバイスに従えば「自分のアドバイスは有益だった」とご満悦。
  • たとえ対象者が従わなかったとしても「あいつは自分のアドバイスを受け入れようとしない愚か者だ」と見下せる。

「支援・アドバイスをする側」に「嫌らしさ」を感じるのはここら辺にあると思う。
「アドバイスの対象者」を、半分バカにしているのだ。

自分も自覚・反省せねば…

さて、私自身も弊ブログでたびたび「マウンティング」をしていることを告白せねばならない。

純粋な形での「マウンティング」は「諸星ノア」氏に対してやってしまっているし。

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「私は女性にやさしくありたい」「恋人がいる」あたりなんか見下してるものね。

また、「『アドバイス』というマウンティング」もね。

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「相談・アドバイス」という行為に対して、「マウンティング」という「嫌らしさ」を多少たりとも孕んでしまうことは自覚すべきだと思う。

それではまた。

毒オトナの条件・第3回「ステレオタイプでマウンティング」

おはようございます。

おととい、フジテレビ系で「憎悪ポルノドキュメンタリー」が放送されたという。

「入国管理局に収容されている外国人は『不法移民』だ」という決めつけにもとづく酷い内容だったんだって。
これもまた前に綴った「ステレオタイプ」を醸成するコンテンツだといえるだろう。

ちなみに私がネットゲーム「戦国IXA」を引退した理由の一つは、当時ツイッターでフォローしていたIXAプレイヤーの一人が「難民は不法移民」などとヘイトツイートしていたことだった。
むろん、引退に伴いフォローも切った。

sgtyamabuunyan.hatenablog.com

さて、今回の「毒オトナの条件」は、引き続き「ステレオタイプ」について綴る。

第3回「ステレオタイプでマウンティング」

さて、最初紹介したように各種マスメディアはいろいろ「ステレオタイプ」を作りたがる。
主に週刊誌の記事やバラエティ・ワイドショー番組で。

前回も綴ったが、「NEETニート)」に関して「働いたら負けかなと思っている」と話した人間がその代表だろう。
そういえばこの「ステレオタイプ」を作り出したのもフジテレビだったな。*1

こういう「NEET像」が「ステレオタイプ」という形で共有され、私に対しても「糞NEET死ね」という言葉をぶつけるようなことが起こったりしたわけ。

「派遣切り」の際の非正規雇用労働者バッシング

ちょうど10年前、リーマンショックに伴う「派遣切り」が話題になった。
その際に起こったのが当事者=非正規雇用労働者たちに対するバッシングだった。

当時、「派遣」も含む「非正規雇用労働者」といえば「能力が劣っている人間がなるもの」という「ステレオタイプ」が醸成されていた。
「能力が劣っているのだから切られて当然」というような。

その年の年末、「年越し派遣村」というものも話題になったが、その際も「支援を受けている人たちは派遣ではなくホームレス」「運営者はプロ市民」などのバッシングがすさまじかった。

これらのバッシングは富裕層とされている人たちからはもちろんのこと、似たような立場である「非正規雇用労働者」からもブログ等で発信されたことに私は驚いた覚えがある。

マウンティングして「確認」したい

なぜ、こんなことをするのか。

それを解くためのキーワードが、
「マウンティング」
である。

「マウンティング女子」などという言葉が話題になったが、要は、

「自分が(マウンティング相手よりも)優位な立場にいる」ことを確認する行為。

  • 自分は「年越し派遣村」などの世話など受ける必要がない
  • 自分は「NEET」ではない
  • 自分は非正規雇用労働者に甘んじないように「努力」をしてきた人間だ
  • 自分は「不法移民」ではないetc…

こういったことをマウンティングによって「確認」し、自分自身を「安堵」させるのである。

次回はこの「マウンティング」についてもう少し綴りたい。

*1:「とくダネ」というワイドショー番組。

毒オトナの条件・第2回「なんでもかんでもステレオタイプ」

こんにちは。

今回は毒オトナの条件の第二回。

第2回「なんでもかんでもステレオタイプ

以前、池上正樹氏のコラム「引きこもりするオトナたち」において、私が以前愛読していた高齢HIKIKOMORI、「二条淳也」師匠のことが紹介されたとき、「ヤフコメ」「まとめサイト」等において「結婚していてHIKIKOMORIか~?」「そんなのHIKIKOMORIではない」「ただの『ヒモ』だろ」など、
「HIKIKOMORI」に対するステレオタイプに満ちたコメントがあふれまくった。

また、これまた私の愛読ブログ「ぼそっとプロジェクト」においても、フランス人ジャーナリストの「ステレオタイプ丸出しの『HIKIKOMORI』観」に対して池井多氏が憤る様子が綴られていた。

vosot.hatenablog.com

ステレオタイプで考え、語ることはとても楽ちん

 池井多氏のブログ記事に寄せたコメントでも綴ったが、
ステレオタイプでものを見、考え、語ることは本当に楽ちんかつ便利である。

  • 障がい者」といえば「車いす、あるいは白杖盲導犬を使って外出している」
  • 「HIKIKOMORI」といえば「一日中暗い部屋でネットゲームかネットサーフィン」
  • NEET」といえば「『働いたら負けかなと思っている』などとぬかす世の中をなめ切ったDQN野郎」

こういった前提認識=ステレオタイプをもってすれば話題について行けるのはもちろん、他の方もたいていステレオタイプを共有しているので「話が合う」。

そしてこのようなステレオタイプの「生産拠点」は、
テレビや雑誌、新聞などのマスメディア。

ステレオタイプに苦しめられる私。これを崩すことは大変な困難を伴う

私自身、親含め周りのオトナたちからの「ステレオタイプ責め」には苦しめられた。

  • 大卒だったらこれくらいわかるだろうに(大卒だからって何でも知っていると思わないでほしい…)
  • (バイト先において)あんた、ケータイ使いこなせるんだから商品管理用の端末も使えるよね?(このとき私はケータイなんて使ったことがなかった)
  • で、「ワカラナイ」などと返すと「そんなこともわからないのか!」などと罵倒と侮蔑が飛んでくる…

こういったステレオタイプは、オトナたち自身に「想像力」が無い限り崩す(認識を改めてもらう)ことは大変な困難を伴う。

HIKIKOMORIもそうなのだが、ステレオタイプにさいなまれている人たちは「スパルタクスの反乱」並の抵抗運動でもやらないととてもきつい…

次回はステレオタイプがもたらす最大の悲劇について綴ろうと思う。

毒オトナの条件・第1回「人の悩み・苦しみを遮る」

こんにちは。¡Hola amigos!

本当に更新が滞って申し訳ない…

さて、今回からシリーズ連載「毒オトナの条件」を本格的に展開する。

第1回「人の悩み・苦しみを遮る」

あなたは、自分の悩みや苦しみを人に打ち明けようとしたときに、こんなことを言われたことはないか。
あるいは、人に悩みや苦しみを打ち明けられたとき、こんなことを言ってしまったことはないか。

  • 「お前の苦しみなぞ大したことはない。世の中にはもっと苦しい人がいるんだぞ」
  • 「夜空を見てみろ*1。お前の悩みなぞちっぽけなものだ」

要するに、いずれも「お前の悩みなど聞く耳を持たん」と遮っているわけだ。

なぜ遮るのか

私自身も親や周りの人からさんざんに言われた。
特に「うつ病抑うつ状態」で悩んでいたときに父親から上記の言葉を投げつけられたときは涙が出た。

なぜ、こういう人の悩み・苦しみを遮るような言動をするのか。

それは、単純に「面倒くさい」からだろう。
あるいは「うざい」。

別に「自分の悩みを解決してほしい」とは言っていない。
せめて「拒絶せずに共有してくれる」だけでもいい。

しかし、わが国ニッポンの「毒オトナ」たちはそういうことすらせずに先ほど掲げた言葉を投げつけて遮ってしまう。

そうすると、悩み・苦しみを抱えた当人はそれらを自分の「うち」に「ため込む」しか方法がなくなる。

「うち」に「ため込んだ」当人の悲劇

悩み・苦しみを「うち」に「ため込んだ」当人は、新たに抱え込んでしまった悩み・苦しみもまた「うち」に「ため込む」。
「外に出す」方法を毒オトナたちに封じられているのだから当然。

そして、「うち」に「ため込む」うちに、当人は自死など悲劇的な結末を迎えるようになる。

「なんで『サイン』に気付いてあげられなかった」?毒オトナどもが気づこうとしなかったんだろうが

「うち」に「ため込んだ」当人の悲劇。

よく「いじめ自殺」を取り上げたニュースなどで「自殺してしまう前に、周りのひとたちは『サイン』に気付くことはできなかったのだろうか」などという文言を見聞きする。

バカおっしゃい。
毒オトナども、おまえらが当人の悩み・苦しみを「真摯に」受け止めようとせず、上記のふざけた言葉で遮り気づこうともしなかったんだろうが。

「毒オトナ」のシステムに気づかなかったら、私自身も自死していただろうな…
死ななくてよかったが。というよりも死ぬ「度胸」もないのでこのシステムに気付くことができたわけだが。

次回に続きます。

*1:あるいは「高台からの遠景」「高い山」「アフリカの広大なサバンナ」などいろいろなパターンあり。